「ふん、平和か。クソ喰らえ! 平和は、同胞の血と肉をたんと喰らって伸びた木だ。ちょっぴり骨だけ喰い残してな。反攻で死んでジャングルに横たわっているのは、生きる値打ちの一番あったやつらだな。」「それは言い過ぎだろう、善人だって大勢生きている、善人はこれからも大勢生まれてくるだろう、生き残った者も大勢、一緒懸命に生きようとしているんだ、じゃなかったらわれわれの苦労はなんのためだったんだ?」ジャングルで、地獄の日々のなかで、答えのない議論が交わされる。議論は長々とつづき、兵士たちはたがいにうんざりする。ここには、世界が反世界に反転しかねない不穏な力と、それをなんとか食い止めようとする力の葛藤がある。そう、長くつづく地獄には、善が悪になり、美が醜になり、知が愚に反転する不穏な力が育っているのだ、兵士たちそれぞれの心のうちに。だが、もしもその力に屈する自堕落なよろこびを選んだならば、それは自分が人間であることをもやめる瞬間なのだ。
作家は終戦後、地獄の日々の真実を書くことで、自分自身の人生を救い出そうとする。だが、それはけっして容易ではない。「この小説に着手してから、キエンは崖っぷちにたたされるように感じている。書くことが希望だということは分かっている。書くのが使命だという確信はある。だが、その一方、自分は何も分かっていないのではないかという疑いが沸いてくる。自分を信頼し切っていいのだろうか? (・・・)書いているのが自分でなく、他の何者か、自分に恨みさえ持つ誰かではないか。そいつが、規範を侵犯し続け、ドグマの転覆をさえ企て、その上、彼の文学への信念どころか、人生の全てを根底からひっくり返そうとでもしているのではないか。」
この小説の前景には、キエンとフォンの十七歳同士の純愛が、戦争によって容赦なく破壊されてゆくメロドラマが置かれている。このメロドラマによって、この小説は(入り組み、込み入った書き方にもかかわらず)広い読者に受け入れられる作品になっている。しかしながら、文学読みの読者は、そのメロドラマのみを主旋律と受け取りはしない、むしろこの小説は、先に述べた、「世界が反世界へ反転しかねない状況での葛藤」、「理性が屈服しかねないような地獄を、書く事という理性の仕事でいかに表象しうるか」、「そもそも戦争を表象することなどできるのか?」といった、さまざまな主旋律群が主旋律の覇権を奪い合う、ダイナミックな葛藤のポリフォニックなドラマなのだ。
現代文学の読者は、次の旋律を忘れないだろう。かれは原稿が行き詰まると、同じアパートに暮らす聾唖者の女のところへ行き、ひとりでえんえんと話しつづける。彼女はかれが、自分のことを別の女性と重ねあわせ、自分の存在にはなんの意味もないことを知りつつも、かれを待ちつづける。そればかりか、主人公がどこかに姿を消してしまったときには、かれの部屋に行き、散らばった原稿をかき集め、大切に預かっている。そして、この物語の最後には主人公が姿を消し、かれとは違うもうひとりの私が登場し、その女性からかれの原稿を渡される。聾唖者の少女は、かれの書き残した原稿を、年代順に構成しようと何度となく試みるが、けっきょくあきらめることになる。なぜなら、そのテキストは、どのページからはじめることもでき、またどのページで終らせることもできる、そんな種類のテキストだったから。そう、それは愛をもってしか綴じ合わせることができないテキストであり、同時に、どのように綴じ合わせたところで、つねに仮綴じでしかありえないテキストなのだった。それはまさに『戦争の悲しみ』それ自身のように。
ヴェトナム戦争について多くのアメリカ人が語り、小説を書き、映画を撮った。復員兵の孤独と絶望についても多くが語られた。しかしヴェトナム人はそれらについて沈黙を守っていたように見える。終戦後十五年たってバオ・ニンのこの小説『戦争の悲しみ』(1990年)は現われた。最初に読みふけったのは、おそらくヴェトナム人の元兵士たちだろう。著者と同じ元北ヴェトナムの兵士だけではない、南ヴェトナム正規軍の、はたまた南ベトナム解放民族戦線の元兵士も読んだだろう。それどころか英訳版は元アメリカ兵も読んだに違いない。戦時下においては敵対し、殺し合った者同士が、戦後同じ小説を読み、二度とおもいだしたくない、けれどもおもいださずにはいられない、悪夢のような戦時下をおもいだしただろう。読者はみなここには、あの頃のおれたちのことが書かれている、とおもっただろう。かれらの多くは、あれほど願った平和時にどこかなじめず、何度となくこの小説へと戻っていっただろう、狂気がえんえんつづく日常だった日々のなかに。