「都会における情報というのはすべてが断片で、全体としての像を結ばないでしょ。刺激の量や種類が多いだけで、しかも偏りがあります。その刺激にただ身を任せるのなら都会の方がいいでしょうが、物を書く身としては、その逆の方がいいんです。静かで集中できるということではなく、このような小さな町では、ひとりひとりの人生の全体というものが見えるんです。情報に振り回されていない分だけ、この町の人の喋る言葉には、その人自身の人生や、静かだけれど確かにその人以外ではありえないような重みが乗っているんです。小説を書くにはこの方がいいと思います」
いったい、日本の地方都市の中3の女子がこんなこと言うかね! そういえばアメリカでは、小説を書くことを教えるとか、創作コースなんかは日本よりはるかに一般的だったはず。「シェークスピアとジョン・アーヴィングとマイクル・クライトンが好き」というこの彼女、いったいどんな小説を書いているのだろう?
著者がスモールタウンで遭遇するのは、こんな聡明な人物や、心温まる会話、「体と心と記憶を総動員して魂で味わう質のものだ」と表現する料理ばかりではない。時にはチャイルド・アビューズ、つまり幼児虐待の驚くべき実態に直面したりする。全米で1年間で100万人(!)を超える児童が親によって虐待もしくは放置を受けており、その勢いは年々「山火事のように」広がっているという。そして基本的に、そうした実例は都市部よりもスモールタウンのほうが発生率が高い。「時流には乗れていないけれど、人間らしく温かくて、犯罪の少ないスモールタウン」という図式は、実は現実ではないのだ。
『語るに足る、ささやかな人生』の中で述べられ、筆者が思わず深く首肯してしまい、しかもアメリカという「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)を考える際に重要なキーになると考えられる概念に「画一性」「無個性」がある。以前、やはりクルマでアメリカを長く走った経験を持つ知人がいて、「とにかく行く町行く町、どの町もみんな似たりよったりでうんざりしたよ」というようなことを語った時に、とっさに「うわ、代わりにオレが行けばよかった!」と感じたことがあって、しかしどうにもその理由が自分で考えてもなかなかわからない。
その「理由」に、図らずもこの本が「解答」を与えてくれたような箇所があるのだ。
「しかし僕は、逆にすがすがしさを感じてしまうのだ。なにもない砂漠の風景のなかで却って自分の内面がくっきりと立ち上がってくるように、無個性な状況のなかに置かれた自分は、そこで初めて何をなすべきかを考え始めるということもある。(中略)その象徴が、モーテルの部屋だ。アメリカにおけるモーテルの部屋の水準というのは、「余計なものは何ひとついらないけれど、最低これだけは揃っていてほしい」というラインの上にある。とてもはっきりしている。(中略)これだけ平凡にしかし確実に基本が押さえられていれば、むしろ自由のようなものを感じる。気にしなくても済むことから始まる解放、というのはこれだ。豪華なホテルや歴史のある場所に泊まるよりも、僕はモーテルの方をずっと愛している。間違ってもチェーン店が個性を出すなどということは、今後もしてほしくはない」
すがすがしさ。自由。そうなのだ。「個性」なんてコヨーテにくれてやれ。人間もそう。それまでの人生でチマチマと備蓄してきた「個性」なんて、アメリカ大陸のだだっぴろい風景の中で風に飛ばされてしまったほうがいい。それでもわずかに残る、なにかしら「熾」のようなものがあったら、それがその人の「なにか」なのだろうと思う。
えー、思いがけず脱線しました。ここにいたってお里が知れるというか、正直言いまして、わたくし、アメリカ贔屓なんです。そりゃもう、知性と歴史を兼ね備えたヨーロッパなんかよりも、はるかにグッと来るわけなんです。世界一迷惑な国家でもあると思うのですが、おそらく、出自や階級や属性にかかわらず、ほんとうに裸になった一個の人間と一個の人間とをそこにポン、と置いて、それでうまくやっていけるかどうかの実験場という意味では、アメリカは最高のフィールドではないかと思います。
と、いったところでこの特集「アメリカを語る本」はおしまいです。もし全部通読してくださった方がいらしたら、コーヒーでもご馳走したいくらいです。うすいアメリカン・コーヒーは、何杯もお代わりして読書したり、会話したり、ただ体を温めるのにも最適です。おいしすぎない、適度に不味いコーヒー万歳!
アメリカ、Yes you can !