アメリカ映画は、今でも世界最高の水準にある。筆者はそう信じている。アメリカ映画
とは、いわゆる「ハリウッド映画」もそうだし、もっとインディペンデントな映画、例えばロバート・レッドフォードが始めた「サンダンス映画祭」などから出てくる映画も含めて、そう言えると思う。確かに、ちょっとヒットするとすぐシリーズ化されたりするし、かつて日本で大ヒットしたアニメ『マッハGoGoGo』を翻案したウォシャウスキー兄弟の『スピード・レーサー』のように、すでに存在する物語を起点とする映画が増えているのも事実である。これを持って、「オリジナル・ストーリーを生産できる脚本家が少なくなった」という耳が痛い指摘もある。その通りだ。が、そのいっぽうで、若いクリエイターが次々と誕生し、その層の厚さは、映画発祥の国であるフランスをはじめ、イタリア、ロシアなどと比べても、質、量ともに凌駕していると思う。
そんなアメリカ映画の中には、「スモールタウンもの」と呼びたくなるような映画がある。むろん、そういうジャンルがあるわけではないが、隣の町までには相当な距離があり、匿名の人間が存在する余地は基本的になく、生きることの全体が町と係わっていて、独特の温かみが備わっているかと思うと、時に思いがけない残酷さが顔を出したりする。「道」と「クルマ」が決まって重要な役割を果たすのは、それが画面に映るということが、すなわち「ここではないどこか」を示唆するから。開拓時代の面影とアメリカ人本来の生の全体性(まっとうな暮らし)を残していながら、しかしやはり時代から取り残されていく、どうしようもなくうち棄てられた、荒廃した空気もぬぐいがたい。『アメリカン・グラフィティ』や、とりわけ『ラスト・ショー』などにはそんな風景が確実に映し出されている。
『語るに足る、ささやかな人生』を読みながら、そうした何本かのアメリカ映画のことを考えてしまうのは、この小さな果実のような本から常に「風景」が立ち上ってくるからである。筆者もこう書いている。
「どのスモールタウンにもあてはまる共通点は、音が少ないということだ。絵のような印象を受けるのはそのせいかもしれない。幹線はずっと向こうだし、車はたまにしか通らない。何かの音が、時折遠くから聞こえてくるだけだ」
『語るに足る、ささやかな人生』は、「普通なら訪れることもなく、偶然に通りかかってもそのまま車で過ぎてしまうような」スモールタウンだけに立ち寄って、全米を車で横断してみる、という試みを記録したものである。スモールタウンとは、程度の差こそあれ人口はだいたい3千人くらいで、「偏った情報にあふれた都会のアメリカではなく、何もない広大な土地に、星のように散らばった小さな町こそが、アメリカの素顔であることは間違いない」と感じられる場所である。
容易に想像がつくように、観光地でもなければ大きな都会でもない、住民以外の誰にとっても特に価値があるとも思われない、そんな町のガイドや情報が存分にあるはずもなく、要は直感と偶然のなすがまま、ということになる。
マンハッタンでレンタカーを借りてから、カリフォルニア州パームスプリングスまで。曰く言いがたい理由、もしくは五感が呼び寄せるそれぞれの町の選択は、むろん充実した素晴らしい場所だったり、逆に失敗だったりするわけだが、著者は、スッとその町の住人に寄り添っていくのが非常に巧みだ。この本は、長距離を単身踏破してみせるという意気込みに満ちた暑苦しい旅行記でもなければ、文学作品でもない(一つの町で一つの章という体裁で、そこで綴られる「物語」は確かに短編小説の趣はあるのだが、すべては事実である)。なかなかにジャンル分けのしがたい内容で、そこが魅了なのだけれど、著者は町の住人に話を聞くときには、あっさり、「ジャーナリストかなにかなんだろう」と思わせる手を使ったりしている。具体的には、カメラを携帯すること。「スモールタウンマニアなんです」なんて言うよりも(そのセリフも出てくるのだが)、そのほうがはるかに実際的で効果的なのだ。
14箇所のスモールタウンの「物語」の中で、もし人気投票があったとしたら、おそらく多くの読者が最も幸福感に満ちた章として「投票」するだろう「ウィスコンシン州ダーリントン」では、なんともため息が出るくらい聡明な中学3年生の女の子の、こんな発言を紹介している。導入部の「はじめに」の章とあわせて2回、同じ発言が繰り返されているから、著者にとってもよっぽど印象に残った話だったに違いない。