一方、ドイツから逃れたナチの高官が多く逃亡したとされるアルゼンチンで、真っ当に暮らしていた人間が、偶然耳にした会話から、自分が復讐すべき「ナチだった」人間を探す手づるを見出した者がいる。何年も何年もかけて調べ上げ目的の人間を探し出し、遙か北欧まで旅をして、復讐を遂げる日が来る。アルゼンチンからスウェーデンまで一人の旅を続けて目的の人間の近くに迫る。
この、隠れ住む者、追跡する者が描く線が交わる。
当然、地元警察による捜査が始まるが、あまりにも陰惨な殺され方なので慄然とする。
その街に、殺された者の同僚だった刑事がやってくる。その刑事は、自分が癌であることを宣告された恐怖から逃れるための旅の目的地を探していて、結局なんとなく、元同僚が殺された町に向かい、殺人現場に足を踏み入れてしまう。嫌がられはするが、地元で事件の捜査に携わる刑事と行動をともにすることになってしまう。
こうして、殺された者、殺した者、捜査する刑事、その地では捜査する権利を持たない刑事、殺された者同様に口数の少ない関係者が顔を揃える。
と、ここまで書いて、このあとを書くと「ミステリーを読む楽しみ」を奪ってしまうことになる。
二つだけ書いておくとすれば。
殺された者がナチだったことは、殺した者しか知らない。だから、捜査する者は「なぜ殺されたか」なかなかわからない。同僚だった警官にも、自分の過去を語ったことがなく、ナチだったことを知らないでいた。しかし、共同で捜査しているうちにあることに気づく。
そうしているうちに第二の殺人事件が起こってしまう。
これで、先の事件で「殺した者」が動揺する。二人目の殺人も「私だと思われてはかなわない」と考える。自分は、きちんとした目的を持ち、長い時間をかけて計画した復讐を果たしたのであって、無闇な殺人者ではない。
同一犯の連続殺人だと思われてはたまらない。第二の殺人の犯人を見つけて、何らかの手を打って警察に知らせて「そっちに関しては自分が無実であることをわかってもらわない」と、アルゼンチンに帰ることができない。そう思ってしまうのだ。この人物の行動が全体を非常にややこしくしてしまう。あとは、書きません。
なぜ、どうして、ミステリー方面でいう「ホワイダニット、ハウダニット」の謎が深まる。もちろん誰がやったかの「フーダニット」も刑事たちを悩ませる。
手伝うことになった被害者の元同僚は、癌の次回検査で何を言われるかが不安、治るかどうか、死んでしまうのではないかと気が気ではない。殺人が起きた街で、邪魔にされながらも捜査に加わり続け、時には単独行動でまずいことをしてしまいながらも、そうしている間は癌の恐怖から逃れることができるという気持ちで、自分をごまかし続ける。
捜査が進むにつれて、ナチが「過去のことではない」と知れて、大人たちに苦々しい思いが湧く。
小さな証拠を積み重ねながらじりじりと事件をほどいていく。
普通にいって、面白いミステリーです。ただ、ミステリーが全く初めてという人には大変だと思います。少し歯ごたえのあるミステリーは、ちょっとした経験が必要だというのが私の持論です。
話について行く「持続力」。読んで楽しむ「読解力」。上下巻を読み通す「体力」。登場人物の顔や生活に目を届かせる「創造力」。まだ他にもあるけれど、基本的のこうしたものが、過去の読書体験によって育まれていないと、がっちりした読み応えのあるミステリーは、読み通せない。そういうことが多い。
この「タンゴステップ」は、すらすら読めますが、ある程度「力の要る」ミステリーです。
とはいえ、日頃ミステリーを読んでいない人に、どうしてもヘニング・マンケルを紹介したい気持ちがある。
また、日頃ミステリーを読んでいる人で、まだヘニング・マンケルを読んでいない人に、「次の予定にぜひ、この作家を」とお薦めしたい。
この一冊は独立した本なので、手をつけやすい。なお、シリーズの方を読む場合は、「断じて」話の順に読んでください。家庭的な問題、友人・人間関係などからいっても、時間の経過通りに読んでいかないと十全に味わえないところが出てくるから。