久しぶりに出会った「ナチ物」ミステリーである。とても良質のミステリーです。
ミステリー小説に決まった分類があるわけではないが、私のいう「ナチ物」には、逃げたナチの大物を探すもの(大物中の大物は、生き延びていたヒットラーということになる)、ナチが隠したとされる金塊や美術品を探すもの、ナチに殺された人の子供(兄弟、夫・妻もあり)が復讐のために犯人探しをして密かに殺そうとするもの、などが基本。他には、新たなナチ帝国を創り出そうとする人間の計画を叩くものなどもある。SF系では、ヒットラーのDNAを保存してあって、それを移植して育てた子どもたちが登場するという小説があったはず。これは、方法だけでいえば「SF系」ではなくなった感がある。
この『タンゴステップ』は、ナチに殺された人の子供が復讐を果たそうとするものの中に入れて間違いはないが、それが一筋縄ではいかない複雑さを持っている。だから奥底から面白い。
複雑な展開で、読む者に「背景の根の深さと、人間の罪深さあるいは、善し悪しを別にしての人間の意志の強さ」をじわじわと見せつけてくる。
濃いグレイに塗りつぶされたような世界を、殺人者や捜査官や、過去から抜け出ることができない者たちが言葉少なに動き回る。原文もしっかりしているのだろうが、翻訳の文章が「落ち着き払っていて」みごと。文体に味がある。海外ミステリは、翻訳してくれる人の力量、読解力が大きな要素である。
今、新刊を待ち遠しく感じて読む、数少ない作家ヘニング・マンケルの、シリーズものではない一冊だ。
これまでこの作家の手になる、スウェーデンの小さな町にいる刑事、ヴァランダーを主人公とするシリーズを5冊、『殺人者の顔』、『リガの犬たち』、『白い雌ライオン』、『笑う男』、『目くらましの道』(CWAゴールドダガー受賞作)と読んできた。これは警察小説として、最高のシリーズの一つです。(ほんとだって!)
私は、友人に群を抜いて面白い本を薦めるとき「面白くなかったら、オレが買い取る」と言うことがあるが、まさにそれです。
創元推理文庫で『殺人者の顔』を読むまでこの作家のことは全く知らなかった。そして一冊目で魅入られ、あとは出るたびに確実に読んできた。母国ではすでに全9作出ているシリーズだそうだが、それをトントントンと出さないで年一作品ずつにしている創元推理文庫にいらいらしている。まぁ、シリーズを全部出されてしまうと、次が無くなって困るのは私ではあるのだが。
そのシリーズで、スウェーデンという国、その国の人の住む街の空気感や季節の流れ、また「寒い地域に住む人々の心のありよう」などをゆっくり味わってきた。
警察小説の優れたものは、その署にいる人間たちそれぞれに家庭があり、悩みがあり、喜びもありつつ、ある時すべてから離れて犯人を追跡しなければいけない日々が続くことを立体的に書く。その加減が見事なマンケルである。すでに『87分署』の新作が読めない今日、北欧のこの警察小説は貴重なのだ。
インターネットで創元推理文庫の「新刊情報、近刊情報」を見て、いつヘニング・マンケルの作品が出るのか待ちきれない気持ちになる。
そして今年の贈り物が『タンゴステップ』である。
「ナチ物」と書いたが、私の知らないヨーロッパの歴史があった。ヒットラーが擡頭してきて、ナチの思想がドイツだけでなくヨーロッパ全体に広がっていった初期、スウェーデンなど北欧の少年の中には「僕もナチの一員となって、ヒットラーの目指す第三帝国のために活動するのだ!」という思いに駆られた者が少なくなかったらしい。それぞれの国で、自分たちのおかれた境遇を変えて行くにはナチだ、という風に思ったのだ。熱にうかされたように、ナチになびいていったらしい。そうしてナチの兵士になって戦ってはみたものの、結局、歴史のような結果になった。
最後になって惨めなドイツで、古い言い方だけれど「命からがら」生き延び、北の国に戻って、ナチだったことをひた隠しにして生きてきた一人の男がいる。地味に、静かに、人前に出ることを極力避けて生きてきた。名前を変え、過去を人に話すことなど全くなしに淡々と警察官として生きてきた。
しかし、その人生を通して、時折「自分を見張っている者がいるような気がしてならない」日常だった。長く警察に勤めて退職後、自分を見張る影から逃れるために、スウェーデン国内でもひっそりとした地域の、繁華した場所から離れた場所に住まいを構えて一人で隠れ住んできたのだ。