播磨は、列島の油圧装置だったかもしれない。ポンプのように機能し、新鮮な文化、高度の技術を東国など隅々に供給してきた。
瀬戸内の海運の利便性。肥沃な土壌。険しくない地勢。温暖な気候。豊富な砂鉄・・。播磨は、渡来の民にも魅力的な土地に映ったようだ。
「播磨国風土記」では、渡来神の天日槍(あめのひぼこ/新羅王の子)が侵入し、在地神の伊和大神が激しく戦った記述がある。神崎郡の八千種など各地で、壮絶な戦闘が繰り広げられた(「日本書紀」では、きわめて円満に播磨に住み着いたことになっている)。
しかし、その後は、比較的うまく両者は親和したと川上氏は考える。
おそらく、そのとおりであろう。ここで思い出すのは、地域革新は、常に外来者の手によってなされるという法則だ。生粋の地元民だけで凝り固まっていては、大したことはできない。外来者を拒絶し、かれらの定着・進出を認めない社会、国家は衰退していく。排除から包摂へ。この法則は、古代から有効であったわけだ。
また、こうも思う。ヒトは、日本列島では、発生していない。ならば、列島に住むひとすべてが、渡来人の末裔ではないか。
加えて言おう。全てのヒトが混血ではないかと。純粋な「日本人」のかたがいらっしゃったら、NPO法人ハヌルハウスまで、ご一報ください。
読み終わって、疑問が生じた。我われ近現代のヒトは、賢くなったのだろうか。
いや、利口になっていないなあ。20世紀が進歩の時代だと誰が言ったのか。これほど、戦争による死者が多い世紀は、ほかになかった。
今で言えば、焦眉の問題は食糧とエネルギーだろう。投資ファンドによる石油や穀物市場の異常な過熱を抑えきれない我われは、進歩していないぞと、秦氏からきっと笑われることだろう。
それでも人間は熱心に国境線をひき、国家を設け、みずから囲った柵のなかで暮らしている。佐藤優氏は、「一辺の国土をおろそかにした民族は必ず滅びる」という。果たして、そうなるのか。
国家とはなにか。民族とはなにか。現代はどこに行き着くのか。
本書を手にした読者は、お札を渡された気持ちになるかもしれない。