時宗の総本山・遊行寺(藤沢市)で、賦算(ふさん)を受けた。ご存知のように、時宗は踊り念仏、賦算と呼ばれるお札配り、遊行を三大特徴とする。一遍上人は、「南南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」のお札を配ることを、とくに救世済民の本義とした。
本堂で年若い僧侶においで、おいでと呼び込まれ、わけもわからず列にならび、右手で受け取ってくださいと脇の壮年の僧にささやかれ、小柄な老僧から墨刷りの和紙を鎌倉時代さながらに渡された。あとで訊くと、74世遊行上人の真円さんだという。賦算できるのは、こんにちでも上人ひとり。2センチ×8センチの大きさは変わっていない。いまは無料。かつては、現在の貨幣価値で二千円ほどの謝金を納めたようだ。
思えば、いたるところに古代、中世へのトバクチがある。
本書は、列島各地に半ば放擲された来歴、正史から遠ざけられた史実を、渡来の民を中心に掘り起こす労作である。
古層は、視る努力を重ねないと、実像が浮かんでこない。視えざる人びと、視えなくされてしまった人びとが主人公だからだ。
二部構成になっている。沖浦和光氏は「古代日本の「『国家』と渡来人」、川上隆志氏は「いくつもの播磨へ」を担当。
ご存知のごとく、沖浦氏は被差別民研究の泰斗。桃山学院大でながく比較文明論、社会思想史を講じてきた。おそらく現在、もっとも数多く被差別部落を訪れた研究者だろう。その足跡は、インドネシアの離島から南インドのスラム、ネパールの辺境まで及んでいる。
川上氏は、岩波書店の元・名編集者。岩波新書のイメージを一新するカラー版をはじめて刊行。沖浦氏の名著『竹の民俗誌』など、幾作ものロングセラーの勧進元だった。「へるめす」の編集長として、「いくつもの日本」論を展開。多元文化、多源文化に基づく日本論の見直しを提唱してきた。いまは専修大学の教授(日本文化論、出版文化論)。
第一部執筆の沖浦氏の筆致は雄渾だ。冒頭で、東アジア共同体の可能性に論及。日本は、共同体の構築に進まざるをえない。しかし、アメリカ依存一辺倒の現状では、アジア諸国の信頼度は低いと分析する。また、埴原和郎氏の日本人の二重構造論、尾本恵市氏の分子人類学の収穫を紹介。陰陽道、医薬道は渡来の文化であると論じ、著者の住まう河内に点在する渡来系の人びとの足跡に思いを馳せる。いわば天体望遠鏡で俯瞰し、電子顕微鏡で腑分けしてみせる力業だ。
かたや、第二部の川上氏は終始、精緻に迫る。秦氏を当時の先鋭ハイテク集団ではないかと提起。医薬、養蚕、酒造、製塩、皮革などの技術者として捉えなおすことを唱え、渡来の民の代表氏族の新たな評価を促す。
さらにハードたる先端技術から「呪術に由来する芸能への感性など、いわゆる日本文化の枢要は、実は渡来系集団の秦氏が占めてきたといって過言ではない」と、ソフトの分野に論をすすめる。
その好例が秦河勝だ。聖徳太子の側近で、秦氏の族長として軍事力、経済力を背景に活躍。後年は大和から播磨に移住。大和猿楽の始祖は河勝なりと、世阿弥(秦元清)は『風姿花伝』で述べている。その世阿弥が、みずから秦氏の後裔を自認している。日本文化を代表する能自体が、渡来の民が主体となり、生み出したものなのだ。
そんなことは、どの教科書にも書いていない。正史から、こぼれる部分、権力者が排除したい部分にこそ、真実がやどる。これは、沖浦、川上両氏の共通の認識であろう。
また、古代史は、現在に伝えられる文献がすくないこともあって、アマチュアや好事家が参画しやすい分野である。邪馬台国の例をあげるまでもない。
ややもすると、第一線の研究者でも、想像や願望が思考の文脈からにじみ出る。両氏は注意深くこれらを排し、地肌をなめるように畿内、播磨、東京・木下川、宇佐、筑豊を歩き、確たる史実を拾い上げる。その意味で、目と足の記録とも言える。