『東海道四谷怪談』が歌舞伎との連続と非連続を、時々の製作者の態度に寄って変えながら、連綿と日本映画の恐怖のメインストリームにあることを確認できたことは新鮮だった。黒沢清がそんなに四谷怪談を重視していたとはね! 次に、おそらくこれは編者の意図ではなかったと思うが、複数の筆者によって図らずも「女性」という問題が浮上してきている点が興味深い。日本映画における『東海道四谷怪談』が、お岩よりむしろ伊右衛門を中心に据えてきたという指摘と、そこからお岩をどう考えるかという問題。様々な演出家によって描かれてきた四谷怪談が、お岩の実父の四谷左門が伊右衛門に殺される「左門殺し」(いまでも四谷には左門町という町名が残されている)の場面を含む場合、それは必ず「お岩の子産み」とセットになっており、「左門殺し」がない場合は「子産み」も描かれないという横山泰子氏の分析が冴えている。横山氏はそれぞれ「ファミリー型四谷怪談」「カップル型四谷怪談」と呼び、後者の場合、伊右衛門という非道な男を愛するお岩という、1人の女性としての側面がより強調されるわけである。
また(Book Japanレビュワーでもある)鷲谷花氏の論考「『リング』三部作と女たちのメディア空間」は、Jホラーの傑作とされる『リング』三部作において、「呪い」の起点には必ず「女性」とビデオテープなどの「メディア」の掛け算があること、同時に「悪魔祓い」の作業に携わるのはもっぱら男性であることを指摘したのち、論考のラストでこう書く。
【かくして『リング』の世界における、≪メディア≫との関わりによって≪怪物≫化した女性と、≪呪い≫としての女性的情報・言説・イメージは、一見、≪父親≫の支配権力を破壊するかにみえて、実際には≪父親≫を、無垢の犠牲者にして救済者である特権的な存在として浄化し、その権威を正当化する機能を担うことになる。そして、結末に至っては、娘たち、女たちは、おぞましい≪怪物≫として、ついに浄化の機会を与えられないまま、貞子の潜む井戸の暗闇に、理解も共感も届くことのない領域に棄却されるつづけるのだ。】
この文章は怖い、と思う。これは『リング』批判だろうか。わからない。しかしここには、批評の確かな手応えがある。「理解も共感も」寄せていこうとしている、と言ったら言い過ぎだろうか。ここには「冷静と情熱」がある。「あいだ」はないけどね。
他のテキストでは、坂尻昌平氏の「怪奇と幻想の廃墟――鈴木清順『悲愁物語』論」が個人的に好きである。みなさん、『悲愁物語』、観たことあります? ムチャクチャな映画、真実アナーキーな映画ですよ。坂尻氏の論考では、ベンヤミンの「破壊的性格」という概念を援用しているところが、ツボをついていると思う。「破壊的性格は、何ものをも持続的とは見ない。しかし、それゆえにこそかれには、いたるところに道がみえる」とベンヤミンは書く。まさに『悲愁物語』そのものである。
本書の最後に登場する、異色の――そう言うしかないだろう――谷岡正樹氏のテキスト「ホラー対ヤクザ」は、ヘタしたらこの本全体の企画意図をブチ壊しにしかねない「破壊的性格」のものである。「一番怖いのは人間のリアル」(人対人の関係だ)で、「映画はヤクザなり」が結論なのだから。こういう「破綻」が内包されているところが、本書のようなコンピレーションもののイイところである。
全329ページ、ボリュームたっぷりの充実本です。そして女性誌によくあるような、600字くらいの、毎週試写室行ってるような女性ライターが書いたハナクソみたいな文章より、これらのテキストを断然支持します。