クッツェーの『エリザベス・コステロ』(2003年)はクッツェーのオーストラリア移住後の作品であり、後期クッツェーの代表作である。近代イギリス小説に多く見られる、登場人物たちが議論をたのしむ小説のスタイルを、きょくたんなまでに思弁小説として強調したものである。文学論小説といってもいい。主人公たちは、文学論を中心に議論を重ね、近代のそなえたさまざまな問題をくまなく洗い出してゆく。喩えていえば、筒井康隆の『文学部唯野教授』の系統であるといえなくもないが、ただしそこで提示される文学論は、サイード以降のポストコロニアル文学論を大いに意識しながらただし教条主義にはけっして陥らず、その近代批判は、帝国主義、フェミニズム、動物愛護論とステージを変えながらねばり強く変奏される。それでいてまた文学論のあいまに差し挟まれる偏屈でおっちょこちょいな、フェミニストの純文学作家で、動物の権利擁護に情熱的で、ヴェジタリアンの、オーストラリア在住白人老作家エリザベス・コステロをめぐる物語もいかにもユーモラスで、まるでBBCかなんかでやっていそうなスノビズムあふれるテレビドラマのように魅力的なんだ。ただし、実はこの『エリザベス・コステロ』の真の主題は、〈ヨーロッパ精神という亡霊とは、なにか?〉という問いなのである。
この小説には周到な仕掛けが幾重にも張りめぐらされている。たとえば、ヒロインのエリザベス・コステロは、1928年生まれのオーストラリア人で、九作の小説と二冊の詩集をもつ作家である。彼女が文名をあげたのは、四作めの小説『エクルズ通りの家』(1969年)であり、その作品は、レオポルド・ブルームの妻、モリー・ブルームを主人公にした小説である。ちなみにご存知のとおりレオポルドは、アイルランド人ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の主人公であり、三十八歳、新聞社でしがない広告取りをしている。そして『ユリシーズ』といえば、オイディプス神話を「現代」に変奏したものであり、そしてオイディプス神話といえば、母親の不義の物語であると同時に、かの有名な父親の息子への抑圧の物語、すなわちエディプス・コンプレックスの物語である。(もっともジョイスはオイディプス神話のごく一部しか翻案していないので、劇的なはなしは一切出てこない、むしろ"現代の小市民の日常を象徴するかのように"、たいした事件はなにも起こらずだらだらはなしは進み、そのかわり記述についての著者の自意識は過剰で、アイルランド人ジョイスの英語への怨念が、大英帝国への怨嗟が英語をおちょくり倒し、英語をうんこまみれにしてやろうという黒々とした自意識が見事に開花している)。
さて、クッツェーはこの設定になにを託しただろう? 表面的な意味としては、現代文学が抑圧してきた〈女〉を解放し、文学史を読み替えてゆくとともに、おそらくはクッツェーが託したであろう真相の意味においては、第三世界という名の不肖の息子が、ヨーロッパ精神という〈父〉からさんざん抑圧され、その抑圧にたまりかねて、〈父〉を殺し、母を寝取る、そんな不穏な主題が含意されているのである。では、いったい不肖の息子の母、すなわち〈ヨーロッパ精神の妻〉という比喩は、なにを指し示すだろう? 答えよう、それはまさに文学のことでね。
エリザベス・コステロは言う、「魅力的な人物でしょ、モリー・ブルームというのは?----ジョイスのモリーという意味よ。『ユリシーズ』じゅうに足跡を残しているのね、まるでさかりのついた牡犬が匂いをつけて歩くみたいに。お色気なんてことばはあてはまらない。もっと生々しいもの。男たちはその匂いに気づくと、鼻をうごめかせてぐるぐる回り、たがいに唸りあうのよ。モリーがたとえその場にいなくても。」インタヴュアーは彼女に畳みかける、「夫や愛人や、ある意味では作者がモリーを閉じ込めたエクルズ通りの家から、彼女を外へ連れ出してダブリンの町へ放したわけです。」
インタヴュアーはさらに問う、「ジョイスのモリーを、エクルズ通りに閉じ込められた囚人とするなら、女性全般も結婚と過程に縛られた囚人だと思われますか?」エリザベス・コステロは答える、「今どきの女性には当てはまらないわね。けど、そう、モリーはあるていど結婚の囚われ人と言えるでしょう。1904年のアイルランドで差し出される類の結婚だけれど。夫のレオポルドもやはり囚人ね。モリーが婚家に閉じ込められているといすれば、彼は締め出されているのよ、かくして、中に入ろうとするオデュッセウスと外に出ようとするペネロペが出てくる。それがあの『オデュッセイア』というコメディアなのね。喜劇的神話。
それに対してジョイスとわたしは、それぞれの流儀で敬意をはらったわけです。」ここですでに結婚の比喩は、〈植民地政策〉の比喩になっている。そう、モリーが閉じ込められたエクルズ通りの家から、モリーを解放すること。こうしてクッツェーの『エリザベス・コステロ』は、その主題を提示する。だが、その主題はたからかに提示された直後に、猿が学会でスピーチをする、というカフカの自虐ジョークに反転してしまう。その話題をもちだしたのはエリザベス・コステロで、彼女のインタヴューはその話題とともに、がぜん冷え込んでしまう。ここはクッツェーのアフリカーンスとしての自意識が、いかにもイギリス的なシニカルなジョークを呼び寄せている箇所である。こうして癖の強いキャラクターたちの思弁と自意識のゲームは滑り出してゆく。