たとえば、ドラクロワ《民衆を率いる自由の女神》の構図を研究・応用して描かれた宮本三郎《南苑攻撃図》(図版018、25ページ)、あるいはカバーにも図版が使用されている鶴田吾郎《神兵パレンバンに降下す》(図版023、30ページ)の、前景に暗い褐色で描かれた三人の日本兵を配し、後景に明るい南国の青空と黄金色に輝く雲、白い花のように舞い落ちる無数の落下傘を配した大胆な明暗のコントラストなどからも、そうした努力と工夫の一端が伺われます。
また、ミリタリーマニア的な細部へのこだわりをもって写実的に描かれた魚雷を、水神雷神が抱えて突進し、その手前を色鮮やかなエンゼルフィッシュの魚群が泳ぎすぎていくという何とも形容しがたい光景を、得意の大画面に描き出したのが川端龍子《水雷神》(図版72、80ページ)。この作品からは、伝統的日本画の技法を用いつつ、「近代国民国家」の芸術たるにふさわしい新しい様式を創造しようという野心を見出すことができるでしょう。
いずれにせよ、そこには画家の側の積極的な創作意欲、そして芸術家としての野心が働いていたことは、図版を見るだけでもある程度感じとることができますが、巻末の論考および懇切な作品解説が、さらなる理解を助けてくれます。
本書の後半に収録された各論考は、積極的に戦争と関わることになった戦時期日本の美術家たちを、たんに「戦争協力者」として十派一絡げに断罪するのではなく、彼ら彼女らなりの切実な動機と実践のありように、それぞれに光を当てることを試みています。針生一郎「戦後の戦争美術―論議と作品の運命」(142-146ページ)は、近代日本美術が常に抱えていた、「《近代美術》としての先鋭的な表現を志せば公共と大衆から隔絶し、大衆の社会生活との密着を志せば国家の統制下にある画壇に絡めとられるほかない」というジレンマを一挙に解消する手段が、総力戦への協力に他ならなかったことを指摘しています。
あるいは、河田明久「「作戦記録画」小史 1937~1945」(153-162ページ)は、当初、理念も大義も曖昧なまま開戦された日中戦争に、ある後ろめたさを抱えて従軍していった画家たちが、「日本による欧米からのアジア解放」という善悪の闘いの物語を当てはめうる「大東亜戦争」開戦を機に、真の大義をもつ「歴史画」の制作へと積極的にのめり込んでいく過程をつぶさに明らかにしてゆきます。
日中戦争期には、「敵」も死体も流血も存在しない画面の中に、「後ろ姿」として描かれることが多かった日本兵たちが、「大東亜戦争」開戦を期に、「ヒーロー」として堂々と正面を向き、「敵」米兵を殺戮しはじめるに至るという、「戦争画」の具体的な画面の変化の分析に即したこの論考は、日中戦争から日米開戦以降までの国民心理の移り変わりを考えるにあたっても、強い説得力をもつものです。
「公共」と「大衆」から完全に隔絶してしまっても、あるいは完全にその内部に絡め取られてしまってもアイデンティティを確立しえない「芸術家(アーティスト)」という立場の危うさが、今もなお切実な問題でありつづけている以上、本書が提起している「戦争と美術」の問題は、完全に清算済みの遠い過去の問題ではありません。本書に収録されている図版および論考からは、現代の「公共」と「大衆」と「芸術(アート)」の関係をめぐる、生々しい問題提起の数々を汲みとることができるでしょう。
残念なのは、戦時期美術の中でもとりわけ高い評価を受け、多くの追随者を生んだとされる、藤田嗣治の「作戦記録画」の数々が、遺族の意向によってカラー図版としては収録されていない点です。顔も軍服も泥のような褐色に染まった日本兵たちが、米兵を踏みしだき銃剣で突き殺しつつ「グチャグチャ」と蠢き積み重なる『アッツ島玉砕』をはじめとする藤田の戦争画は、画面そのもののグロテスクさもさることながら、河田論文が紹介する、「自分の描きあげた画面の物凄さに恐怖を感じた藤田が線香をあげたところ、描かれた兵士達の顔がふっと笑いかけてきた」、「展覧会場では『アッツ島玉砕』の前に賽銭箱が置かれていた」といったオカルト的な逸話の数々が、その異様さ、グロテスクさをさらに際立たせます。
しかし、椹木野衣の論考「「戦争画」をめぐる広大な密室――外へ」(147-152ページ)が、「戦争画」と「戦後ポップ」の間の連続性と循環性を指摘しているように、この異様でグロテスクな光景は、われわれにとって、なつかしさのようなものを感じさせはしないでしょうか。たとえば、永井豪『デビルマン』から大友克洋『AKIRA』に至るまで、戦後マンガがくりかえし描きつづけてきた「グチャグチャ」したカタストロフィの光景――近年の一例をあげれば、三浦健太郎の長編マンガ『ベルセルク』(白泉社ジェッツコミックス)、とりわけ第13巻に描かれた「蝕」の光景――と、それはどこかしら似通ってはいないでしょうか。
したがって、われわれが本書のうちに見出すことができるのは、未知の異様な対象ではなく、現代のわれわれを取り巻くイメージや想像力のひとつのふるさと――忘れられ、あるいは意図的に隠されてきたふるさと――なのかもしれません。