前置きが格段に長くなってしまった。そこで新刊『ガーディアン』である。この小説は『BG、あるいは死せるカイニス』(光文社)や『人柱はミイラと出会う』(新潮社)のようにSF的な設定を用いている。主人公の勅使河原冴は、ごく幼いころに父親を亡くした女性だ。父親は「死んだ後にも、お前を護っている」と約束してから事切れた。その約束は守られたのである。冴の周囲には、常にガーディアンという見えない存在があった。彼女が危険な目に遭いそうになると、ガーディアンが護ってくれるのである。それが倒れてくる板のような無生物によるものである場合、ガーディアンは単にバリアーの働きをするだけ。
ところがその攻撃が本能をもった生物や、明確な意志を持った人間のような存在からのものであった場合、ガーディアンは未然に防いだ攻撃をさらに増幅させた形で反撃を行うのである。ずいぶんと剣呑な護り神なのだ。
二部構成の第一部では、冴の会社の同僚がガーディアンによって屠られる。階段の上から転落し、死亡したのだ。事故死や自殺とも考えられる状況だったが、冴はそれがガーディアンの攻撃の結果であることを知っていた。同僚が落ちる直前、ガーディアンが行動に移るときのシグナルを感じていたからだ。それはつまり、同僚が自分を殺そうとする悪意を持ったということでもあった。しかし冴には心当たりがない。なぜ彼が自分に殺意を持ったかということが、第一部における謎解きなのである。
超自然現象を導入してはいるが、これはいつもの石持小説だ。おもしろいのは、ガーディアンに「人格」がなく、「法則」によって動いているという点だ。ガーディアンが動いたのならば絶対なのだ。冴に対する殺意は、あったのである。ミステリーの中における殺意は、因果の連関の中で曖昧に描かれることが普通だ。殺意があったから犯人は行動を起こしたのか。事象の連なりが結果として殺意を生じせしめ、殺人という一連の行動が起きたのか。原因なのか結果なのか、よく判らない形で書かれることがほとんどなのだ(この曖昧さを一刀両断し、殺意の有無は殺人という行為には無関係であると回答したのが京極夏彦の『魍魎の匣』です)。石持はこの曖昧さに着目したのでしょうね。殺意の有無は問題とされず大前提となり、なぜなのか、という謎だけがクローズアップされるという物語の枠組みは非常におもしろい。
しかし、本当にオリジナリティがあっておもしろいのは第二部の方なのである。ネタばらしを防ぐために一切内容には触れないが、ここでの関心は人間心理の謎解きではない。ガーディアンの「法則」をいかに利用するか、というハウダニットが物語の中心になるのである。第一部は謎解き小説だが、第二部は活劇小説である。それも、人間の知恵「だけ」を武器に使ったアクションが描かれる小説だ(私は、荒木飛呂彦の漫画を連想しました)。人間は思っていた以上に奇妙な行動をとりうる。通常は思いつきもしないようなことをするのが人間、想像できる範囲のことはなんでも実行してしまえるのが人間。そういった自由度の高い人間理解が、この活劇を成立させているのである。一人も怪物は出てこない。しかし、描かれた現象は怪物的だ。おののくよ、これは。