石持浅海ほど、人間を描くことに一所懸命な作家はいない。ただし、逆説的なやり方で。
逆説的なやり方で人間を描くって、何じゃらほい。
人間を描くという要素はほとんどの小説の根底にあるものなのだけど、あまりに当然すぎて、作家も読者もしばしばその意味を忘れがちなほどなのですね。正面切って「人間を描く」とはどういうこと、と聞かれたら即答は難しいのである。現実にもいそうな人物を小説に登場させる、というだけでは浅薄すぎる。実在する人間の似姿である必要はないけれど、その登場人物を見本にして現実世界を検索したら、合致するような人が見つかるような気がする、という程度の手ごたえを読者に感じさせるように小説を書く、というのが一般的に使われている「小説で人間を描く」ということの意味じゃないかしらん。
ところが石持浅海の行き方はまったく違う。彼がやっているのは「人間の閾値を試す」ことなのだ。閾値とは、それを下回ると対象をAと認識できなくなるという下限を示す値である。人間の閾値を下回ると、どうなるか。対象を、人間と認められなくなるのだ。なんだかよく判らない怪物のように見えてしまうだろう。でも、小説内で描かれている「それ」はあくまで人間なのですね。つまり石持は読者に対して、人間というのはここまで幅が広い存在なのですよ、という極限を示しているわけである。そういう形で石持は、人間に対する自分の信頼感を試しているのだと思いますね。ここまでか、いや、ここまで人間として認められるか、という確認が、彼の小説では毎回行われる。
そのために、とんでもなく奇妙なサンプルを提示することもある。たとえば二〇〇八年六月に発表した『耳をふさいで夜を走る』(徳間書店)では、複数の人間を殺害することが自身の正義であると考えている人物が主人公だった。それは単なる精神錯乱ですって。そうじゃないんだな。そういう不思議な思いこみに陥った人間は、刑事裁判の精神鑑定では責任能力が欠如した異常者だと見なされることがある。だが石持は責任能力者として主人公を書くのだ。異常者とも書かない。あくまで人間の側にいる者が、正常な思考の下に判断し、人を殺すのである。そんな奇妙な行動をとる者であっても、人間と認めうる場合があるのではないですか、と石持は作品の中で問うているわけだ。
もちろん、こんな突飛なケースばかりではない。日常の中で起きたささいな事を題材とする作品も多いことはファンならご存知だろう。たとえば『Rのつく月には気をつけよう』(祥伝社)所載の短篇「夢のかけら 麺のかけら」では、カーペットの上にベビースターラーメンがまかれた、という出来事から登場人物の心理を当てる、という推理が展開される。ここから『耳をふさいで夜を走る』の極端までは一直線につながっている。人間の心理の働きを、どれだけ広く、自由に見積もることができるか。そうした狙いの下に石持はミステリーを書いている。