すごいんだよ、キラン・デサイの『喪失の響き』(原著2006年)、デリー生まれのインド人女流作家による英語小説でね、2006年ブッカー賞受賞作、まさにインド人作家が謳いあげる、現代に生きる世界中のすべての人々に捧げる、壮絶なラプソディでね。日々グローバライズされてゆくこの世界の、負の側面を見事に描き出しているんだ。しかもどんな救いのない悲惨な状況でも、著者の記述はユーモアを失わず、それゆえいっそう読者は胸をしめつけられ、かつまたこの恐るべきしっちゃかめっちゃかな事態が、けっして他人事ではないことを、おもいしらされるっていうわけなんだ。
時は1986年。舞台は、ほとんど世界の果てというような辺境。ヒマラヤのふもとインドのカリンポン。国境がほとんど意味をもたない地域であり、逆にいえば民族紛争が絶えない場所である。物語は霧の深い日からはじまる、ヒロインの少女サイの家に、来るはずの家庭教師ギヤンは(サイが待ち焦がれているにもかかわらず)来ない。その代わり(?)やって来たのは、ゴルカ人の民族解放ゲリラの強盗だった。物語はがぜん不穏に、それでいてどことなくコミカルに動き出す、(ただし、いったいどこを目指して?)
読み進んでゆくとわかる、物語の中心にあるのは、いかにもナイーヴな、インド版『ロミオとジュリエット』だ。叔父の家に世話になっている、孤児の、インド人少女サイ十七歳、そしてネパール系インド人でゴルカ族(Gurkha=グルカ族)の青年ギヤン二十歳の、悲劇的な恋。サイは、数学の家庭教師として現われたギヤンと恋に落ち、いつしかふたりは愛し合うようになって一年目。しかしギヤンはサイに惹かれるものの、かれ自身はゴルカ族の解放を求める活動家でもあるがゆえ、サイにあこがれながらも、同時に、ものすごい反発もまたある、とりわけサイが英国流の教育を受けていて、英国的価値観をすっかり内面化しているところ。たとえばサイがインド人のくせに(!)クリスマスを無邪気に祝ったりする、そんなささやかなことがギヤンには許しがたくばかばかしくおもえ、なんとかしてサイを傷つけたくもなるのだった。ギヤンがサイにおもいがけない(とんでもない)裏切りを行っていたことを、物語なかばでサイ自身が気づく。けっきょくふたりは傷つけあい、愛は壊れてしまう。
ギヤンのサイへの反感はいかにも幼く、いくらか不当であり、しかもその行動はときとして不正であることに物語なかばで読者もまた気づく。しかし仮に百歩ゆずってギヤンをおもいやろうとするならば、ギヤンの言い分にもいくらかなりともうなずける理があることがわかる。
なるほどサイ自身認めるとおり、彼女の教養はさまざまに矛盾している、ロキンヴァー(ウォルター・スコットの詩)とベンガルの詩聖タゴールの詩が、経済学と道徳が、タータンチェックのスコットランドのダンスとドーティをまとったパンジャーブのダンスが、ベンガルの州歌とブレザーのポケットを飾るリボンが、たがいにノイズをあげながらも平然と共存している。しかもサイの読書は、雑誌なら『ナショナル・ジオグラフィック』であり、新聞で読むのはキキ・デ・コスタの料理コラムであり、本ならばハーパー・リーの『アラバマ物語』だったり、ローリー・リーの『サイダー・ウィズ・ロージー』だったり、クラレンス・デイの『ライフ・ウィズ・ファーザー』だったりする。そう、サイの内面は完璧にヨーロッパナイズされている。そもそもサイは英語話者として育ち、ヒンディは片言である。それに対して、おそらくギヤンや、それからまた彼女の暮らす家の料理人は、ヒンディ母語であるがゆえ、英語は片言だったり、片言とはいわないまでもかなりぎこちないものである。したがってサイとかれらとの言葉のコミュニケーションは、(サイがかれらをいつくしんでいるときにおいてなお)、いくらか表面的なものであるほかない。インドは言語環境が複雑であるがゆえ、このようなコミュニケーションの分断は、たいそう日常的なものである。