他方、イギリスの典型的な企業家ウィルコックス家の主人ヘンリーさんは、(前述のように)実に実利的な考え方をする人物である。ヘンリーさんは、けっして現金を基礎に文明論を語りはしない。なぜならヘンリーさんにとって現金はあくまでも現実そのものなのだ。したがってヘンリーさんにとっては、シュレーゲル家の人たちのような人物は存在そのものが頼りなく、いかがわしくおもえる。ところがヘンリーさんの死んだ妻が、シュレーゲル家の長女マーガレットと芸術を語り合うあいだがらで、彼女はマーガレットのことをことのほか好きで、遺言に彼女に別荘ハワーズ・エンドをゆずる遺志まで残したものだから、はなしは厄介になる。しかもそのうちに、ヘンリーさん自身が(あろうことか)マーガレットに惹かれてゆく。
しかし両家が接近するのは危険ではないだろうか? なぜなら価値観があまりに違いすぎる、近づけば近づくほどたがいを傷つけてしまうだろう。近づかないほうがいい、離れた方がいい。だが、両家は接近してしまう。すべてがカネに還元されてしまう過酷な世界のなかで、それでも〈目に見えない世界を実感しながら生きている文化的人間〉と〈実利の世界しか信用していない人間〉のふたつの価値観がはげしい葛藤を演じてゆく。葛藤は緊張感をともないながらもえんえん持続し、しかも主要登場人物のほぼすべてが、物語の展開のなかで、心になんらかの傷を負ってゆく。おカネで買えない大事なものはなんですか?
E.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』は、その問いを響かせながらクライマックスをつくりだしてゆく。この小説は、二十世紀にずれこんだ十九世紀イギリス小説の爛熟であり、近代イギリス資本主義三百年の最終段階のそなえた矛盾群をしっかり見すえた、イギリス市民小説のひとつの到達点である。
だが、それと同時に、(現在から見たとき、必ずしも肯定するばかりにもゆかない)過去のある時代の精神を、どのように考えるべきなのか、という問題もまた残る。たとえば『ハワーズ・エンド』のみならず、フォースターの描く世界は、もっぱら白人ブルジョワ階級と、ジェントリー階級の世界であり、白人労働者階級の人物さえ、せいぜい葛藤の一部を担うにすぎない。救いはフォースターには『インドへの道』があることで、そこにはポストコロニアリズム文学への通路をひそかに備えていると言えないことはない。たとえばケンブリッジ版イギリス文学史は、「『インドへの道』によってイギリスはキプリング流の単純なアングロ・インド観と永久に決別した」(3巻、研究社、1977年、395頁)と賛美を捧げる。
なるほどとおもうものの、しかしわれわれはもはやその後、サルマン・ラシュディ、クッツェーら、1980年以降ポストコロニアリズム路線をひた走る現代の英語文学を知ってしまっているがゆえ、『インドへの道』に穏やかさと慎ましさの美質を感じこそすれ、文学史を決定づけるような決定的ななにかを感じはしない。