ヘレンは軽はずみな恋をした。そのヘレンの高揚した手紙によって、物語は一気に動き出す。ハワーズ・エンド、それはウィルコックス家の家につけられた名前である。ヘレンはマーガレットへの手紙で、ハワーズ・エンドを賛美してやまない。庭と牧場の境に大きな楡の木があって、梨の木、葡萄の木が植えられていて、家は美しい葡萄の蔓でおおわれています、野薔薇が綺麗すぎます。隣の農家のアヒルと牝牛が見えます。だが、そんなうっとりしたまなざしで綴られた手紙は、三信めでウィルコックス家のポールと愛し合う仲に落ちたことが告げられる。(時代はヴィクトリア朝が終ったばかりである、姉のマーガレットが婚約についてあわてて考えはじめたのもつかのま)、ヘレンからの四信(電報)がとどき、ポールとヘレンの恋がはやくも終わったことが告げられる。
実をいえば、ヘレンはポールを愛したには違いないが、むしろハワーズ・エンドに象徴されるウィルコックス家そのものを愛してしまったのだった。たとえば主人のヘンリーさんは、人間が平等でなければならないなどというのは嘘であり、婦人参政権も、社会主義も嘘で、芸術や文学も、それが人格を養成するのに役立つものでないかぎり、無意味だと考える。一人のしっかりした実業家のほうが十人の社会主義者よりも世間のためになる、と考える。こうしたいかにも現実的見解は、進歩派のヘレンとまったくぶつかるのだが、奇妙なことに、ヘレンは自分を論破されることがうれしかったし、自分が馬鹿者だとおもわれることさえ嫌ではなかった、そこに自分を成長させるなにかを感じて。おそらく美しい家ハワーズ・エンドがそれらにいっそう好印象を与えたのだろう。だが、ヘレンの恋はあっさり終った。ただただヘレンの危なっかしさが印象に残る。
そもそも彼女たちシュレーゲル家の人々の暮らし方そのものがいささか危なっかしい。二十代終わりの姉マーガレットに、年の離れた妹ヘレン、そして弟ティビーだけの暮らし。彼女たちの両親はいまはなく、コドモたちだけで、遺産の金利で暮らしている。彼女たちの家は、キングス・クロス駅のそばにある。読者はもうこの設定だけで、はらはらしてしまう、うかうかして遊び暮らしていると誰か悪い人に騙されちゃうよ、なんて。それからまた、かれらの財産管理も心配だ、確実に下り坂になっているイギリスのノッティンダム・ダービー鉄道に投資をするし、外国の債券に手を出しているのも、心配である。
シュレーゲル家の人々は文化的教養が高く、たとえばマーガレットはベートーヴェンを至高と考え、ヘレンもまた芸術に見識がある。また知性も高く、彼女たちはなにに対しても立派に意見を述べる、と同時にマーガレットは自分の考えが、年収六百ポンドの人間の考えであることも、自覚している。マーガレットはベートーヴェンを愛するばかりではなく、おカネについての見識もまたもっている。彼女は言う、「文明の緯(よこいと)がなんであれ、現金が、経(たていと)なんです。」なるほど彼女たちには立派に考えがある、ただしそんな彼女たちであってなお、実社会で揉まれた経験がないため、どこか地に足がついていないところもまたある。とはいえシュレーゲル家の家族は、日々をクラシックのコンサートや読書で過ごしている。しかも彼女たちはそうした暮らし方にうしろめたさももっていないどころか、意識は毅然と社会に参加しているのである。このあたりがいかにもジェントリー階級を有するイギリスらしい。