よーく考えよう、おカネは大事だよ、ってはなしのようにいっけん見える。E.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』(1910年)、きわめて端正な文体で書かれながら、それでいてウエッジウッドのティーカップがかちゃかちゃ音をたてるようなメロドラマでもあり、それこそテレビドラマにすれば、夜十時から放映できそうである。いかにもイギリス資本主義の爛熟期を感じさせる。しかもわれわれ後世に生きる人間はこの小説の後に、イギリスは三百年にわたる栄華にもかかわらず、第一次世界大戦以降アメリカに世界経済の覇権を奪われてしまうことを知っているから、よけいにおもしろい。
ただしいきなりこの小説を読んでも、ちょっと入りにくいかもしれないなぁ。そこで予備校っぽくて悪いけれど、本題に入るまえに近代英文学史を復習しておこう。スウィフト、デフォー、スターンあたりまで、すなわち十八世紀いっぱいまでは、まだ小説は生まれたばかりのジャンルでね、ノヴェル(新奇なもの)なんて呼ばれてる、したがって書き方もまだ定まってないし、前例のないなかで形式と内容をともに模索し、つくりあげてゆく、おもしろさがある。また時代の気分も反映していて、そこには植民地主義に沸き立つ獰猛ででたらめな活気がある。時代そのものがそれまで海賊だった連中が貿易を口にしはじめるようなヤクザな魅力のある、まさに大英帝国の行け行けゴーゴー時代。
ただしそのイギリスはプロテスタントの国でもあって、さんざっぱら悪事を遂行するかたわら、まじめさもまたある。それが証拠にこの時代は社会思想でいえばアダム・スミスやベンサムの時代でもあって。「最大多数の最大幸福」という功利意義の主題も、いかにもイギリスらしい、その身も蓋もない実直なモラルが。かれらには考えることがいっぱいあった、生産性をどう向上させるか、利益分配をどうおこなうか、税制のあり方、商品の価格が賃金、土地代、利益によって決まること、奴隷制度をどのタイミングで放棄すべきか。こうした近代経済学の主題群は、ある意味で(ある程度)、十九世紀市民小説の主題群を先取りしてるんだ。
さて、十九世紀のイギリスは、なんとナポレオンとの戦争に勝利した高揚からはじまる。それがロマン派詩人の時代でね。それは同時に石炭と蒸気機関の時代でもあるがゆえ、ワーズワースのような詩人は文明を批判し、ヒバリの囀る自然を賛美したりするし、こうした貿易および産業型資本主義を警戒すべきものと見なす姿勢は後にラスキン、モリスの系譜がリードする〈グローバリゼーションのなかでのイギリス市民芸術の向上〉という主題にも結びつく。しかしちょっとやそっと批判されようが資本主義はどんどん発展する。すでに十八世紀末から新聞は何紙も生まれていて、まだ値段は高いもののコーヒーハウスでまわし読みされている。印刷メディアも活気づき、十九世紀後半になると鉄道も敷かれ、流通も促進し、出版においては貸本屋も隆盛する。こうした流れのなかに、イギリス小説の黄金時代がある。
最初の女流作家オースティンは「資産家の独身男性がいれば、誰しも妻をめとろうとおもっているに違いない、これを世間では真理とおもっているのだが」という書き出しで『高慢と偏見』を書いた。美人というカテゴリーから遠く離れていたシャーロット・ブロンテは『ぶさいくジェーン(ジェーン・エア)』を書き、妹のエミリー・ブロンテは美人で、『嵐が丘』という業の深い小説を書いた。父親が事業に失敗しガキの頃から家族のために稼がなければならなかったディケンズは、小説においても、貧困から成り上がる少年の成長物語『オリヴァー・トゥイスト』を書いた。インド生まれのサッカレーは、貧乏絵描きの娘が家庭教師を振り出しになんとしてでも貴族の玉の輿にのってやると野心まんまんな階級上昇婚の物語『ヴァニティ・フェア(虚栄の市)』を書いた。それからまたロンドンの人口はすでに膨張肥大しているから、シャーロック・ホームズのような都市型エンターテインメントも人気を得た。タキシードと裾の長いドレス、ガス燈と煉瓦の家々、馬車と汽車の十九世紀末は、意外と現代の日本に似ている。結婚、とりわけ階級上昇婚、遺産、成長物語、すべては資本主義の世界で生きる者全員の関心事である。
よーく考えよう、おカネは大事だよ、って世界だ。逆にいえば、すべてがおカネに還元されてしまう社会であればこそ、おカネで買えない価値はなんですか、という主題が現われる。そしてそれがE.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』のほんとうの主題なんだ。