かつて、大学講義録というものがあった。明治19年、早稲田大学が刊行した「早稲田講義録」が本邦第一号だ。向学心はあっても学資に窮する地方の青年男女が大いに活用した。昼間は農作業や家業を手伝い、夜は各種の講義録を手に取る。講義録は「知の共有」「大学開放」の象徴であり、立身出世のか細い糸でもあった。戦前だけで、270万人が学んだという。
本書は、宮本常一のふるさと、山口県・周防大島の生涯学習の会がまとめたものだ。前身の東和町郷土大学は、「郷土にいて郷土に学び、同時に郷土で学ぶことによって深い思索と広い視野をもつ」ことを目標に、宮本の提唱によって設立。氏の死後、活動を休止していたが、没後22年目の2003年から再開。以降、40回の講演をひらいた。100人ほどの受講生の芳志が財源。「薄謝」でも、第一級の研究者・地域活動家が集った。本書はそのなかから5人の講義録を選び、島の有志と島出身の編集者が手弁当で編み上げたものである。
本書中、まず目につくのは、宮本常一の業績についてである。
宮本は、近年、再評価が著しい民俗学者だ。民話、生活誌、漁業史から都市民俗、日本文化論まで幅広い分野で、独自の業績をあげていった。物心両面の支援者であった渋沢敬三は「日本の白地図の上に宮本くんの足跡を赤インクで印していったら、日本列島は真っ赤になる」と語った。司馬遼太郎は「日本の人と山河をこの人ほど、たしかな目で見た人は少ない」と評した。
事実、農山漁村を中心に半島や離島をくまなく歩いた。73年の生涯に、その距離は地球を4回り半。総計16万キロ。リュックに折り畳みの傘とカメラ。土間や縁側、畑の畦で土地の人の話に聞き入る日々。千軒の民家に民泊。野宿も珍しくなかった。
『忘れられた日本人』や『家郷の訓』など、名著も残した。と同時に、訪れた村の人びとを励まし、「誇りと勇気を与えた」とノンフィクション作家の佐野眞一さんは言う。貧にあれど、さもしくない人柄に魅せられた佐野さんは、『旅する巨人』(文藝春秋)で、柳田國男以降、最大といっていい業績を残しながら、評価の定まらなかった宮本の軌跡を検証する。
そして浮かびあがる慎ましやかで聡明な我われの祖父母の姿。私利私欲ではなく、公の精神がいきていた時代の佳き日本人が、ここにいる。この安堵感が、リバイバルの大きな要因かもしれない。