ベロニカは生への渇望に気づいてしまった自分と、それを今さら無駄なことだと押しとどめようとする自分の間で揺れ動く。
そんな彼女の言動が、精神病院で暮らすほかの「狂人」、重いうつを患った主婦、パニック障害に苦しむ元女性弁護士、多重人格症と診断されたベロニカと同世代の若い男たち――との魂の相互作用を生み出しながら、物語は展開していく。彼らもまた「本当にやりたいこと」を見失った人たちだった。
私はここで、うつやパニック障害や多重人格を何の前提もなく狂気と称するのには抵抗がある。だが、この物語の中では、世の中で「狂人」とされるのは一体どういう人たちなのか、というのが一つの軸になっているので、あえて言葉として使うことにする。
もちろん、主人公のベロニカも一人の狂人として扱われている。だが、自殺をしたがるような若い女性は、精神病院に収容されなければいけないほど狂っているのだろうか。逆に、そもそも「正常」であるとはどういうことなのだろうか。
著者のコエーリョ氏は、精神病院の医師にこう言わせている。
「大勢の人がそのことを正しいと思えば、それが正しくなるってことだ」
医師は続けて、パソコンなどのキーボードに採用されている「QWERTY配列」(アルファベットキーの一列目の並び方でそう呼ばれる)の話をする。
その昔、タイプライターのキーは別の配列だった。ところが、タイピストがあまりにも速く打つので機械が壊れてしまった。そこで、アルファベットキーを「より打ちにくく」なるように並べ変えたのが、現在もそのまま使われているのだ。
パソコン時代には関係ない事情だが、一度「世界標準」になってしまったら、再び変えるのはどうしたって容易ではない。そのことになぞらえて、医師は「狂気」とは何かについて、こう話す。
「人はおのおの個性的で、それぞれの才能、本能、楽しみ方、そして冒険への欲求を持っている。ところが、社会は常に、我々にある集合的な行動を強制する。でも人は、なぜそんな行動を取らなければならないのかなんて考えもしないんだ。タイピストが、QWERTY式キーボードが唯一無二ということを受け入れたのと同じように、人はただ受け入れるだけなんだ。時計の針がどうしてある方向でなく、もう一方に動かないのか聞いてきた人に今まで出会ったことがあるかい?(中略)もし誰かが聞いたとしたら、その人は〝狂ってる〟と言われるだろう」