と同時に、この小説は、あ、三角関係の惨劇がはじまるのかな、と読者におもわせておいて、実はそこからむしろ、うつろな心を抱えたヒロインの、さまよいのドラマを語りはじめてゆく。ここがね、おもしろいんだ。それからまた、この小説は十三章で書かれていて、それぞれの章に、雅な言葉が添えられていて。「風花」「夏の雨」「大寒」「立春」「春昼」「夏至南風(カーチーペー)」「阿檀」「文月」「夕凪」「小春」「松の内」「冬の庭」「下萌」。そう、それらはいかにも繊細で風雅に見える。でも、実はほんとうはそれどころではなく、むしろ、いまにも壊れそうな心を抱え、世界を、呆然と見ている、そんなのゆりさんのまなざしをこそ反映していて。そう、崩壊寸前の自分自身すらも、まるで風景のように見ているかのような、そんなのゆりさんの不穏なまなざしがそこに感じられる。
のゆりさん、これからどうなっていっちゃうかしら。読者もまた、のゆりさんを心配しながら、のゆりさんと一緒に、心のさまよいを続けてゆく。けっしてムルソーのように母親の死をしらせる電報を見て、さっそく職場に休暇届けを出し、海辺の町へ葬儀に急ぐでなく、はたまたグレゴール・ザムザのように虫になっちゃうでもなく、叔父さんとふたりで、温泉に来ちゃっている。そしてそこから花鳥風月のように描かれた、ひとりの女性の実存の危機の物語がはじまる、ふわふわとやわらかな文体で。風花。そう、この小説に舞う粉雪は、泣き叫びよりも深刻な、心の状態を表象している。すごいなぁ、川上弘美さんって。
■川上弘美 1958年ー。東京都出身。5歳から7歳までをアメリカ合衆国で過ごす。お茶の水女子大学理学部生物学科卒業。在学中は、SF研究会に所属。卒論のテーマは「ウニの生殖」。田園調布雙葉中学校・高等学校で、生物科教員を1986年までの4年間を勤め、退職。各種文学賞多数受賞。
おもな作品に、
『蛇を踏む』1996年
『神様』1998年
『溺レる』2000年
『センセイの鞄』2001年
『古道具 中野商店』2005年
『光ってみえるもの、あれは』2006年
『真鶴』2006年
『風花』2008年
フランス語への翻訳作品に、
"Les Annees douces"(『センセイの鞄』)
"La Brocante Nakano"(『古道具 中野商店』)
"Cette lumiere qui vient de la mer"(『光ってみえるもの、あれは 』)
いずれも版元は、Editions Philippe Picquier。