ほらね。このふたり、どうなっちゃうかしら。そんなふんいきもただよわせつつ、しかしとつぜんのゆりさんは言うんです、「もうわたし、一生セックスとか、したくない。恋愛って、ばかげてる。恋愛する人間には、なにか大きな根拠のない権利が与えられているみたいな感じ、しない?」
のゆりさんの尖った口元が見えるよう。これって(のゆりさんにはめずらしく)、いかにもヒロインにふさわしい啖呵です。でもね、啖呵を切る「方角」が、ちょっと変。だって、ふつうならば自分を裏切っただんなを怒るか、あるいは、だんなを奪った女に恨みつらみをぶつけるもの。でも、のゆりさんはそうじゃなく、(だんなに浮気され、自分が捨てられそうになっていながら)、彼女は〈人が恋愛をすること〉じたいに、なにかもう許しがたい理不尽を感じていて。もちろん読者ははらはらする、「あなた、いまはそんなこと考え込んでる場合じゃないでしょ」なんちゃって。むろんそこは、プロ中のプロ、川上弘美さんならではの、つかみばっちりな、主題提示部なんです。
考えてみれば、とつぜんだんなの浮気を知らされたのゆりさんのその驚愕は、じっさいには、喩えて言えば、「きょうママが死んだ、きのうかもしれないけど、ほんとうのことはわからない」というような不意打ちのショックだとおもうんだ。いや、それどころか、「ある朝、なにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベッドのなかの自分が、一匹のばかでかい虫になっていた」というくらいの驚愕かもしれない。そしてたいていの小説は"そういうふうに"内面の危機を表現する。ところが、この小説『風花』は、(そう、川上弘美さんは)そういうふうには書かない。だって、書き出しは、「東京駅で、のゆりは迷った。」で、読んでゆくとヒロインは東京駅で迷いはしたもののちゃんと真人さんと会えて、で、一緒に花巻温泉までふたりで行って、さんざん愚痴を聞いてもらいもして。しかも、のゆりさんは「こうやってると、わたしたち、夫婦みたいだね」なんてことを言う。しかもその章の終りはといえば、「とんびが数羽、空を漂っている。ピー、という鳴き声にのゆりが上を向くと、曇った空をとんびが次々に横切ってゆくのがみえた」なんだもの。
なんか、ねぇ。もしかすると読者のなかにはこんなことをおもう人もいるだろう、なんだよ、のゆりさん、ぜんぜんだいじょぶ、余裕じゃん。でもね、もしもあなたがそう感じたとしたら、甘い。むしろこんなふうに表現されるのゆりさんの精神状態こそが、よほど深刻かもしれなくて。なぜって、とつぜんだんなの浮気を知らせれて、はげしく泣き叫んでも、だんなの胸ぐらつかんで罵倒しても、ちっとも不思議ではない。なのに、のゆりさんはただ呆然と事態を見つめ、そして、まるで感情が失調してしまったかのように、なすすべもなく、けっきょく真人さんと一緒に温泉へ来ていて。たしかにそれはいっけんお気楽。でも、むしろ、泣き叫びもしなければ、だんなの胸ぐらをつかみもしないのゆりさんの方がよほど深刻・・・という見方もできる。