絵巻物というのは一枚絵と違って、長い巻物の中に時間軸が含まれたストーリー展開と、それぞれのシーンを支配する人物特定と状況設定や舞台背景をはじめ、象徴性の高いビジュアルの集大成である。これに、大和絵特有の同一場面上に同じ人物の姿を繰り返し描き、出来事の時間的推移を示す手法の「異時同図」などが加わると、人物の特定如何によっては、その因果関係とその後の展開や意味合いが大きく変わってくるのである。つまり、〈謎の人物〉とされる者が誰かを特定する推理と検証が、本書の醍醐味なのである。
放火事件の犯人をめぐる物語を描くこの絵巻には、多くの研究者が挑んできた大きな謎があり、著者はこの謎の研究論争を明治初期の第一期から、現在に至る第五期に分けた研究史を詳細に分析し、それぞれの研究家が主張する10通りものキャスティング案を検証して〈謎の人物〉像の特定に焦点を当てていく。多くの研究史を厳正に読み解き、絵巻全体の文法と構成を吟味して、そもそもこの貴人たちが何故〈謎の人物〉になったのかという疑問に行き着いた著者の視座と探求に感服させられる。
やがて、意外な角度からこの謎解きに幸運が訪れる。所蔵美術館員の美術史家が絵巻現物の撮影と調査の結果、上巻第十三紙と第十四紙の間に一紙の脱落がある事を発見したのだ。問題のシーンは、連続していたが故に一つの出来事として解釈され、二人の貴人の推理と人物像の特定が論争になっていたのである。
この発見を得て著者は、その脱落部分に描かれていたものは果たして何であったか、という新たな疑問を解決した上で、今まで一つの出来事として関連付けられた事が、二つの出来事として描かれていたと結論付ける。即ち、清和天皇に左大臣源信が応天門放火の犯人と訴え、清涼殿を後に東庭を歩む伴大納言の後姿。そしてこの様な振る舞いを許さず、就寝していた天皇を起こしてまで諌める藤原良房、その傍らで天皇の仰せを待つ若い頭中将という構図が浮かび上がってくる。つまり、この場面は異時同図ではなく「讒言」する奸臣の姿と、「諌言」する忠臣の姿を対比的に描いたシーンなのだった。
絵師は絵巻物に登場する総勢四五六人にも及ぶ群像に、それぞれ個性的な表情を持たせ、応天門炎上に端を発する一連の出来事を「人の輪連鎖法」とも言うべき方法で、解決の糸口となる子供の喧嘩騒動をクライマックスにもっていく展開。今までの混迷から急転直下で真相暴露に至る解決を、動的且つ劇的な表現で見事なまでに描き切った。結局のところ、絵巻解読の醍醐味は人の姿・その表情・しぐさ・行為の表現から、人と人の関係性を考察する事に尽きると著者は言う。
最後に、本書によって「伴大納言絵巻」という作品は、読めば読むほど計算し尽くされた傑作であることが実感でき、改めてなぜか研究史の途中で〈謎の人物〉論が一番の焦点であり続けたこの絵巻物の不幸に気づかされる。著者慨嘆の如く、彼の平安後期の絵師にとっては、さぞかし永年にわたる不本意な想いであった事だろう。