2007年暮れ、教職員が多く参加した会合で、たまたま講演を聴く機会に恵まれた。会場との質疑応答で、現場の先生から「子どもたちの学力を上げるため、はやりの『百ます計算』(徹底した反復練習で計算力を上げるドリル)を導入している学校がある。立場からはどう考えるか」という質問が出た。寺脇さんは概略、こう答えた。「各クラス、各学校で『うちは必要だ』と思ったらやればいいし、そうでなかったら別にやることはない」
百ます計算は、詰め込み教育だ――質問者はそんな答えを想定していたのかもしれない。少し戸惑ったようだった。Aを教えてBを教えないのが「ゆとり教育」ではないのだ。子どもたちの実情に合わせて「Aを教えてBを教えない」という判断を現場が下せるのが「ゆとり教育」の考え方なのだろう。
また、会場からは「(理不尽なクレームをつけて学校を困らせる)モンスターペアレンツの問題をどう考えるか」という質問も飛んだ。寺脇さんは平気な口ぶりで言い放った。
「親がみんなモンスターになればいい。今は一部の親だけがわがままを言って、多くの親ががまんをしているからいけない。全員がわがままを言い始めれば、互いにぶつかり合ってわがままは通らなくなるわけだから」(※あくまで趣旨として、です)
会場からどっと笑い声が上がったが、寺脇さんはあながち冗談を言ったのではないように思う。子どもをどう育てるか、何を教えるのかということは、「お手本」を押し頂いてなぞるのではなく、それぞれの親や子ども自身、そして教師(学校)が互いに主張し合い、その結果、知恵の総体として紡ぎ出されるものではないだろうか。
だから、親は本当にわが子のためによかれと思うのであれば、仮に他人から「モンスター」扱いをされても、言うべきことを言う勇気を持つべきだろう。寺脇さんは本の中でこう述べている。
〈結局は、親も学校も含めた地域社会が子供を育てる。家庭が教育すべきこともあれば、学校が教える内容もある。それでも、根本にあるのはみな同じ地域住民であるという意識だ。同じ立場にいるのであって、対立する関係では決してない〉
それでもなお少なくない親や、現場の教師たちの含めて、「ゆとり教育=学力低下」を指摘する声が消えないのはなぜだろうか。一つは、若さへの嫉妬であり、その裏返しとしての子どもたちへの蔑視であろう。
そして、二つ目は「ゆとり教育」が非常に舌足らずだった、ということだ。「ゆとり教育」はまず、先にも紹介したように「共通に学ぶ知識」を最低限に抑えることが前提とされている。だが、一体何をもって「最低限」とするのか――が、どうもよく分からないのだ。