もっとも、寺脇さん自身、どうやら「学力低下」への反論にはあまり重きを置いていないようなふしがある。というよりも、「学力が低下するのは当たり前」と言い切っているのだ。
これには怒り出す人が出てきそうだ。が、寺脇流によると、そもそも「学力」のとらえ方が従来とは違うのだ。少し長くなるが、私なりに「ゆとり教育」の要諦だと思うところなので、本から引用してみたい。
〈これまで日本の学校では、小・中・高校で必死に勉強して、大学生になると遊んでばかりいる。大学がレジャーランドと言われ、勉強する場ではないところになっていた。しかし、そんなペース配分はやめて、もう少し前半をゆっくりにしてみようというのも、ゆとり教育の考え方である。前半のペースを下げた状態で、ある一定時期の瞬間的学力を過去と比較すれば、たしかに落ちているかもしれない。それでも、トータルな学力が下がらなければ問題はない。(中略)そのために、前半部分でやるべきなのは、「学ぶ楽しさ」「学ぶ意欲」を培い、「学ぶ方法」を知ることである。小・中学生の学力低下が、単なる知識不足というなら、まったく心配はいらない。学ぶ意欲さえ育っていれば、後からいくらでも補充できるからだ〉
突き詰めれば、人は何のために学ぶか――ということであろう。
1990年代の就職氷河期を経て、今どきまだ「大学のレジャーランド化」が実態として存在するのかどうか知らないが、就職活動の時期が大学3年に前倒しされたことで、大学生は以前ほど安穏としてはいられなくなったようだ。おまけに企業が自前で人を育てる手間を惜しみ、「即戦力」を求める傾向が強まって、昨今ちまたでは「今、企業内では自分で仕事の段取りが立てられない『指示待ち人間』が増えている。企業が求めるのは『基礎学力』よりも『段取り力』の高い人材だ」といった、まことしやかな言説が広がっている。
そういう風潮に踊らされて、一生懸命に「段取り力」を磨こうと、本を読んで勉強している大学生もいるに違いない(仕事の段取りなど、やる仕事によってまったく違うし、実際に仕事をすることでしか段取りを立てる力は身につかない。大方は、上司の「指示」の出し方が不十分であるか、間違っている)。寺脇さんの言い方にならえば、小・中・高校で必死に「基礎学力」を勉強して大学生になったら、今度は「そんなものより段取り力を身につけろ」と言われるのだ。面食らわないほうが無理だろう。
自分の道を切り開き、可能性の幅を広げ、人生を豊かにするために身につけるはずの「学力」が、もっぱら人を選別、取捨する側にとって使い勝手がいい、ただの「ものさし」としてしか扱われてこなかった。それが最大の悲劇なのだ。
「ゆとり教育」の考え方の中には、「学力」を他人の手から、学ぶ人の側に取り返そうという哲学があったのは確かだ、と私は思う。しかし、生身の人間を「人材」と言い切って恥じない現代社会のありようには、なじまなかったのではあるまいか。