この小説は長いこと埋もれていた、世に出し、光を当てたのは批評家スーザン・ソンタグ(1933-2004)である。
ソンタグの仕事は多岐にわたり、その知性の活発な運動はとてもひとことでは語りえないけれど、彼女には公平、倫理、正義の貫徹とともに、小説読みとしても、(意味を読んでゆくのみならず言葉のしなやかな運動に身をまかせながら、その運動に同調し、言葉のオーケストラを愉しんでゆくような、そんな)感受性をもっていたことがあらためてわかる、むろん名作を見つけ出す優れた審美眼と、論争をつくりだし、「事件」を巻き起こすジャーナリスティックな才能も。沼野恭子さんの訳文も、やわらかく、小説の魅力を心得た訳文になっている。彼女の訳したリュドミラ・ウリツカヤの『ソーネチカ』も、アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』も、いい文章だなぁとおもったが、この『バーデン・バーデンの夏』は作品の独創的魅力もあいまってとりわけ魅力的だ。ナボコフや、ゼーバルト、あるいはクロード・シモンあたりを愛する読者は読んでごらんよ、すばらしい文章だから。
■レオニード・ツィプキン(Леонид Цыпкин,Leonid Tsypkin)
1926 年、ロシアのベラルーシの首都ミンスクに生れる。ロシア系ユダヤ人、両親はともに内科医。
家族は、1941年のドイツの侵入でミンスクは陥落、ミンスクから逃れた。若い頃から詩や散文を書いた。戦後ミンスクに戻り、病理学者として、ポリオを研究し、ワクチンの普及に努め、ウィルスや感染症などの研究をおこなった。しかし1950年スターリンの反ユダヤキャンペーンが吹き荒れ、ツィプキンは地方の精神病院に身を隠した。1957年モスクワ在住の許可がおりる。1977年息子ミハエルとその妻は、アメリカに亡命。この件に関してツィプキンはポストを降格され、研究職から追い出され、給与は七十五パーセントも減額された。ツィプキン夫妻は出国を望んだが、しかしソヴィエト政府は、かれらには出国許可を与えなかった。ツィプキンは失意のなかで1977年『バーデン・バーデンの夏』を書きはじめ、1980年に完成した。かれはKGBとのトラブルを恐れ、ソヴィエト連邦の出版社に原稿を送らず、また地下出版も望まず、むしろ国外出版こそを望んだ。原稿はジャーナリストの友人の手でもちだされ、1982年三月、『バーデン・バーデンの夏』冒頭部分がニューヨークのロシア語週刊誌に分載されることが決まったが、ツィプキンはその初回掲載の誌面を見ることなく、五十六歳で死んだ、心臓発作だった。
その後1987年、Roger Keys とAngela Keysの手で英訳され出版されたが、注目されなかった。ところがその本を批評家スーザン・ソンタグが採り上げ、「もっとも崇高で独創的ですぐれた二十世紀小説のひとつ」と絶賛し、ソンタグの序文つきで新版が刊行され、英語圏にセンセーションを巻き起こした。序文にはソンタグによる息子ミハエルへの取材も含まれ、ミハエルもまたツィプキン評価に一役買っている。ソンタグの序文末尾には2001年七月とあり、同時多発テロ事件の二ヶ月まえであることがわかる。
2005年、ロシアでも、この『バーデン・バーデンの夏』が発行された。