この調子でまだまだ一行は(!)つづいてゆくのである、なんてマニエリスティックな文章だろう、一文のなかにさまざまな観点が織り込まれ、さまざまな時間とさまざまな光景を畳み込んだような文章を読んでいると、上等の文学を読んでいるときの、明るい空気が胸のなかに広がってくる。どうやら語り手は、十二月の終りの、列車で雪のなかモスクワを離れ、レニングラードへ向かっているようだ。語り手は読書に夢中だ、アンナ・グレゴーリエヴナ、すなわち、ドストエフスキーの妻の日記を飽きることなくめくりつづけている。語り手は列車に揺られながら、ドストエフスキーの奥さんの回想のなかへ入ってゆく。
ドストエフスキー夫妻は1867年四月ペテルブルグを出て、翌朝ヴィリオに着いた、ホテルでは「ユダヤ人ども」がサーヴィスを押し売りするので困った、「ユダヤ男ども」が連れの「ユダヤ女ども」と散歩している、などなどアンナはユダヤ人への嫌悪感を隠さない。やれやれ。読者はおもうだろう、ドストエフスキーの奥さんも文句が多いなぁ、(若くて新婚さんだというのに)、もう少し明るい話題も書いたらいいじゃないか、それともそれを読んでいる語り手が、ドストエフスキーとアンナのユダヤ人嫌いにひっかかって、考えがそこから抜け出せないのかもしれない、もしもそうだとしたらかわいそうに。そもそも語り手はどんな人でなにがおもしろくてドストエフスキーの奥さんの日記を読みながら列車に揺られ、なにを求め、レニングラードへ向かっているだろう。いや、かれが訪ねるのはレニングラードではなく、ドストエフスキーが生きていた時代のその街ペテルブルグなのだ。
語り手はドストエフスキーの生涯をたどりなおし、かれとアンナの日々をおもい描いてゆく。この小説で描かれるドストエフスキーは、なんともマッチョで、精力的で、わがままであり、アンナはそんなかれにひたすら尽くす。物語は、ドストエフスキーの死で終るものの、そこで語り手の心の棘が抜かれるというわけでもない。安易なハッピーエンドをつけないのは、ツィプキンの誠実のゆえだろう。語り手はドストエフスキーの人生を、精神を、風景のように見ている、受け入れ難いものもふくめて、ただ見ている。作品のなかで語り手は、さまざまに問いかけるが、しかしけっして責めはしない、ただドストエフスキーともあろう人がどうしてだろう、といぶかしくそして痛切に残念におもうのだ。結末にいたっても、赦しや救済の瞬間は訪れない、ただしそこにはアンナの献身と、語り手のドストエフスキーへの愛が同列に扱われ、その淡々とした描写は美しく、まるで文章の美こそが、アンナの魂と、語り手の魂を、救済するかのようだ。
この作品はドストエフスキーマニアには、ちいさな事件になるだろう、その剣呑な主題によって。あるいは怒る人もいるかもしれない、主題もさることながら、この作品にはまさに等身大のドストエフスキーが存在していて、その描き方も従来の「偉大なる」ドストエフスキー像からはかけ離れているから。しかし読み込んでゆけばゆくほど、この作品にはドストエフスキーへの尽くしがたい愛情に満ちていて、けっきょくのところいっしゅん怒りかけたドストエフスキーマニアも、最後にはこの作品を慈しむことになるのではないかしら。また、たとえドストエフスキーマニアでなくともこの小説はおおいに魅力的である、この小説は、〈読者〉を主人公にし、小説を愛し、小説に傷つけられながら、それでも小説を読みつづけてゆく、その無償の行為を、そこはかとなくいつくしんでゆく。明快な結論が提示されないにもかかわらず、あぁ、良い小説を読んだなぁ、という幸福な読後感に包まれる。考えてみれば、主人公は〈読者〉であり、おもえば自分の分身のようなものなのである、自分自身がやさしくされているような気持ちになってくる。