大江の人生は波瀾万丈だ。そのあと、立志社の獄で七年間、岩手監獄に服役。出獄後は第一回の衆議院選挙に当選。次の選挙で落選すると実業界に転じ、東京株式取引所の会頭に就任。京釜鉄道、日本興業銀行、夕張炭坑の経営にも関わった。晩年は、ユダヤ人救済のため、モンゴルにユダヤ国家の建国を計画。大正元年、帝国公道会を設立。同三年、出家して天也と改名。財産や妻子を捨てて、墨染めの衣ひとつで全国を行脚し、部落解放運動に邁進した。こうした振幅の大きい人物が、本書に花を添えている。
〈吉原は流行の発信地〉
衣装、髪形、言葉、歌謡、料理、建築・・・。江戸の流行の最先端は、いつも新旧の吉原が生み出していた。
蔦屋重三郎は吉原の生まれ。五十間道に住み、遊里の案内書である『吉原再見』を刊行。大いに当たり、日本橋に進出して歌麿や写楽などの浮世絵を手がけた。いまでいうプロデューサーの役割を果たしている。旧吉原(人形町)では女歌舞伎が、江戸市中を席巻。寛永年間は、圧倒的に女歌舞伎が主流で、男芝居や童男芝居(子ども芝居)は細々と興行。遊女たちは、笛や太鼓に合わせて、色気たっぷりに今様(歌謡曲)をうたいながら踊りまくる。三浦浄心『慶長見聞録』に「この遊女、男舞かぶきと名付けて」とあるように、阿国も売春婦と見なされていたらしい。
風紀紊乱をおそれた幕府は、寛永六年(一六二九年)、女歌舞伎を全面に禁止とした。踊り子たちは吉原にくるか、湯女になるかしか、道はなかっただろう。また吉原は、評定所に「給仕」として、月に三日、太夫三人の提供をおこなってきた。
ちなみに、陰間(男娼)も健在だ。陰間は芝居にでる舞台子と、そうでない陰子に分けられた。前者のほうが格は高く、揚げ代金も高い。客には、後家や御殿女中も来た。今でいうホストクラブであったらしい。
明暦三年(一六五七年)、こんどは湯女風呂が禁止になった。湯女たちは料理茶屋をひらいて、陰で売春をおこなう。いたちごっこだ。規制しても、必要とする大勢の客がいるかぎり、なくならない。
たとえば「綿摘み」も、そうだ。ふとんの綿を繕うという名目で女性が家々を訪れる。派遣型売春の萌芽がここにある。
本書では、吉原の盛衰が通史として、克明に語られている。官と民のせめぎあい。現代社会と重ね合わせて読むことも可能だ。
「極貧と戦争がつづくかぎり、意にそまぬ売春はやまない」と著者は述べる。現代では、絶対的な貧困がなくなり、国内から戦塵は消えた。より快適な生活を望んで、風俗産業につく女性も少なくない。そんな当世にあって、〈異界〉=世間の黒々とした裂け目から吹き付けてくる風になぶられる。この快感はありがたい。