さらに余談になる。先日、都内本駒込の臨済宗の寺で足が止まった。門前の看板に、こうあった。〈防犯上の理由により、檀家など御用のある方以外の立ち入りを禁止いたします〉。
寺とは本来、慰安・布教・学問・修行など多機能な存在であった。ときにはテラ銭という言葉でもわかるように、博打の鉄火場でもあった。誰でもが自由に出入りでき、人びとが集い、語りあう場であった。「相談ごとのある方は、ご自由にお声をかけてください」。こうあるのが、寺の本来の姿ではないか。
「人びとは不安をおしかくして、いまを楽しむのに熱中した」と、著者は記す。人びとを慰撫する装置として、吉原のほうが数段、形骸化した寺院よりも有効だと言わんばかりだ。
〈大江卓という傑物〉
仙台藩主・伊達綱宗を袖にした高尾太夫を筆頭に、一時代を画した遊女がいきいきと描かれている。 遊女たちは、「男の身分」に所属(屈服)した99パーセントの女たちとはちがい、身分制を逸脱していた。いや、「遊女」という身分を形成してみせたと著者は指摘する。その特異なあり方が、江戸の町人にはよくわかっていたから、彼女たちを「社会外」の者として軽蔑し、同時に女のなかの女として賞賛もしたのだと。
吉原では通常、十余年の年季奉公である。多くの女性は二十六、二十七歳で自由の身になる。吉原の遊女が三千人とし、河岸(簡便・格安の売春宿)の女性は除いて考えると、毎年三百人の「定年退職者」が生まれる。若くして病死する者も多かったから、実数はもっと上回るであろう。
三ノ輪の浄閑寺には、遊女の過去帳が残っている。平均の死亡年齢は二一・七歳。真夜中、非人たちが呼ばれて下級遊女たちの死体を浄閑寺に運んだ。四千人の非人は、歩いて十分ほどの弾左衛門屋敷のある浅草・新町あたりに集住し、普段は市中の紙くず拾い(紙は貴重品であった)、堀や町内の清掃、処刑の手伝いをしている。こういう記述は得がたい。あまたある吉原関係の出版物が触れなかった、書こうとしなかった史実だ。
脇の登場人物も鮮やかだ。
大江卓をご存知だろうか。明治期の政治家・実業家だ。土佐の士族の家に生まれ、長崎で砲術を学び、京では土佐陸援隊に身を置き、倒幕運動に参加。神戸外国事務所では外国との交渉術を覚えた。このとき、フロノタニと呼ばれる被差別部落で悲惨な暮らしをおくる人びとに接した。やがて陸奥宗光に抜擢され、神奈川県の権令(副知事)に。明治五年、「マリア・ルス号事件」が起こる。横浜に寄港したペルー船籍の汽船に、中国人が幽閉されていた。彼らは、南米に奴隷として送られる直前だった。大江は人道上の大問題だとして陣頭に立ち、二三二人の中国人を解放し、清国に送り届けた。
このときペルー側は、日本にも奴隷がいるではないかと、遊女の存在を問題視した。あわてた明治新政府は四ヶ月後、いそぎ「娼妓解放令」を公布する。
この事件がきっかけで、「遊女の人権」が初めて確認されたと著者は言う。それまでの日本人は、誰ひとりとして思いつかなかった対人意識だ。吉原の関係者も、当の遊女たちも青天の霹靂であったろう。