しかし、おもいだしてみよう、カミュもまた、カミュの時代のカミュの生きた状況のなかで、倫理を追求したのだった。ムルソーは世の中がお約束の体系であることを承知しながら、そのお約束を共有しているという演技を示すことに関心を持たない。そう、ムルソーは母の葬儀で涙を見せず、女とともに時間を過ごし同じ時間をたのしみながらも愛の言葉を口にせず、結婚に意味を認めもしないが相手が望むなら結婚してもかまわないと考える。かれはなりゆきとはいえ、正当防衛とはいえ、植民地の現地人を殺し、悪をなした。かれは裁判にかけられるが、反省しない。殺意なく殺人を犯してしまったかれには、改心する理由がない、とでも言うように。ムルソーの、このふてぶてしさはなんなのか。
かれは神を信じず、また神を信じるそぶりを示しもしない。ムルソーはお約束の体系に反抗するわけではないが、かといって共感も示さず、その姿勢のゆえに、司法の反感を買う。この作品にあってはまるで、母の葬儀で涙を流さなかったゆえに、殺人者にふさわしく演出されていったかのようにさえ見える。あげくの果てにムルソーは死刑になる。まさに悲劇である。だがムルソーはその運命を受け入れる。
『異邦人』は一方で伝える、この世界を人間が運営している限り、善/悪には恣意性がつきまとい、きわめて相対的なものであるほかない、というメッセージを。そして他方で伝える、ムルソーは、いまここにある現実を、あらゆるお約束に従属していない太陽、そして海とともにある生を一貫して肯定し続ける、そう、ムルソーにはむしろ生への苛烈な希求がある。ただし、その生への苛烈な希求も、ムルソー的倫理の貫徹に席を譲ってしまう。それどころか、かれの目には、判事も、牧師も道化にしか見えない。だが、それにしても、読者は誰しも疑問におもうだろう、第2部における、ムルソーの不穏な確信、これみよがしのふてぶてしさは、いったいなんなのか?
カミュは、1913年フランス領アルジェリアにフランス人として生まれた。カミュが『異邦人』を出版したのは1942年である。つまり第二次世界大戦が1940年に開戦して、一ヶ月でパリはあえなく陥落してしまって、フランス全土はナチスドイツの占領下にある。苦渋を舐める日々も、はや二年という時期である。すでにゲシュタポはパリに独房まで作っている、レジスタンスたちの調書を取るための場所として。
こうした状況を考慮すると、「きょう、ママが死んだ、もしかしたらきのうかもしれないが、おれにはわからない」というところの、この〈死んだ母親〉というイメージは、たんに主人公の母親というだけではなく、いわば〈汚された祖国〉という含みもまた感じられてくる。そうなると物語においてあらかじめ〈死んでいる父〉は、神の死ということにもなるだろう。
こうなると母が生涯の最後の「フィアンセ」、そう、老人仲間たちからふたりの仲の良さを囃したてられていたというボロい老人のペレーズ氏は、フランス植民地アルジェリアを意味することにもなるだろう。「だらしのない身なり、白髪、黒い斑点がいっぱいの鼻の下で震える唇、青白い顔のなかで血のように赤い耳」をした、母の生涯最後の「フィアンセ」ペレーズ氏・・・なんて不穏な隠喩だろう。では、〈女がらみのいさかいで、アラビア人を殺し、さしたる反省もしない〉ムルソーは?