しかし、では「筆力」と「知識」があれば「ヒョー論」ができるかといえば、そんなことはない。その点がただの評論と違って、難しいところなのだ。小玉さんは本の中で、評論を以下のように定義している。
〈既にあるものについてもっともらしい解釈をしてみせ、欠点を突いてみせて、(中略)一般常識より上に見えるような知識人っぽい雰囲気を醸し出して見せればいい〉
つまり、政治やスポーツ、文芸、教育などさまざまな評論家は存在するが、誰もその分野の専門家ではない。いわば他人の土俵で、他人のふんどしを締めて、なおかつ相撲を眺めているだけなのだ。そのあたり、小玉さんは「軍事評論家」を例に挙げ、こう一刀両断に斬っている。
〈だいたい戦争の専門家だったら、戦場で戦争をしているものだろう〉
そんなどこまで行っても他人事で終わる評論に比べ、ヒョー論には「現場」がある。小玉さんは「駅便ヒョー論家」もやっている。駅弁ならぬ駅便とは、駅のトイレのことである。お酒をこよなく愛する小玉さんは、朝の通勤途中によくおなかが緩くなることがあったという。それで毎日利用する私鉄、地下鉄のすべての「駅便」位置と清掃時間帯を把握していた。
そこから、なぜ駅便は汚いか、なぜ利用しにくいところに置かれているか(一刻を争う場合が多いのに!)、といった考察を広げていく。さすがに最近では曲りなりにも整備が進み、週刊誌などでは「きれいな駅のトイレ」ランキング、なる特集が組まれる。が、小玉さんは冷静にたしなめるのだ。
〈(ランキングには)意味がない。きれいな「駅便」を利用したいからと、その駅まで電車に乗って行くわけにはいかないのだ〉
本には、このように当事者として見聞きし、体験した事柄を自らの体温で十分に発酵させた上で紡いだ「ヒョー論」が12編、収められている。その終章を飾るのが「立ち食いそばヒョー論」だ。なるほど、下手するとセイロ1枚で1000円札が吹っ飛ぶ「こだわりの蕎麦」についてあれこれ語るより、立ち食いそばのほうがヒョー論にはふさわしい。
立ち食いそば屋の評価は、きれいに二つに割れる割り箸を使っているかどうかが一つの分かれ目だが、割り箸を高級なものにして肝心の値段が上がっては本末転倒――といった趣旨のことが書かれている。さすがの筆致と思わせるが、結局、小玉さんは「立ち食いそばヒョー論家」を名乗ることは断念する。世の中には1日3食立ち食いそばで構わないという猛者がいる。そういう先人の探究心、そして積み上げてきた実績には到底かなわないと判断したのだ。小玉さんはそのことをこんな言葉で表現している。
〈評論家がしっかりいる世界にヒョー論家の出る幕はない〉
一見、敗北宣言ともとれる。だが、私にはあえて本の締めに当たる部分で小玉さんがそう述べたのは、「しっかり」した評論家が稀有だからこそ、世にヒョー論の種は尽きず、と宣言しているように思えてならない。もちろん、私の誤読かもしれない。だから、ぜひ今度、赤坂の焼きとん屋でホッピーを飲みながら、本人に問いただしてみようと思っている。
そして、『続・ヒョー論』への着手も促したい。ここだけの話だが、私はこの本に「ホッピーヒョー論」が載るものと期待していた。焼きとんをかじりながら、これまで私たちは小玉さんと何度、ホッピーについて語り合ったか分からない。相当、深いところまで議論は煮詰まっている。ただ、酔っ払って誰も話を覚えていないだけなのだ。