なかでも盛り上がっているのが『茶の湯』での“風流”論議。
「風流」とは禅語からきている言葉であるとして僧侶らしい蘊蓄を傾ける和尚の言葉を咀嚼し、なんとか読者にもわかりやすい言葉にしていこうと時には自身のトホホなゴルフ体験を告白しながら食い下がる志の輔がみものだし微笑ましい。
仏教ネタとも思える『寿限無』での和尚のダメだしぶりも面白い。「寿限無~」は仏教用語でもないし「音が先というか、中途半端な言葉をよくもこれだけ並べたなという感じ」なうえ、漢文的には『寿無限』だとばっさり。 だがこのあと、お経や落語における丸暗記の効用について話がいたると、志の輔のこんな発言が飛び出す。
「丸暗記から始まったのに、どう自分のセリフに変わっていくかのために、長い落語家人生があるんでしょうね」
「噺を丸覚えして口馴れて、口から決まったセリフが出るようになってから、何回か稽古をしていると、ある日、ふと出てくることがあるんですね、セリフが。『あっ、この方が、こいつの言いそうなことだ』とか、この方が割れるな、とかね。
だから稽古する時には、忘れないようにテープを回してやっているんです」
『芝浜』に対する和尚の鋭い指摘も印象的だ。
「(拾った)四十二両で世話になってる人にご馳走して、しばらく飲めると考える人間と、二年間酒を断つ人というのは、もう別人ですね。この別人であるところが気味が悪い、という感じがあります」
これに対しての志の輔の答えはもはや名人芸というしかない。
「その点は、ジャパニーズ・ドリームで処理しないと物語にならないじゃん、で、処理しております、はい(笑)」
志の輔の落語にいい刺激を与えたのではないかと思えるのが、『文七元結』についての和尚の見解。
長兵衛が借りたのも文七が落としたと思ったのも同じ五十両。その二人が出会ってしまったというところに「天の存在を感じる」。
同じ金額だったからこそ長兵衛も文七に金をあげる気になったのだという見方は志の輔にとっても目から鱗だったようで「その長兵衛の心の動きを思うか思わないかで、ぜんぜん違ってくる」と語る。今後志の輔がどんな『文七』を演ってくれるか……それ以外の演目もどう変わっていくか。
本書はそんな期待をも抱かせてくれる。
橘蓮二の写真がまたいい。対談に臨場感だけでなく奥行きをもたらしてくれているし、表紙の写真を見ると志の輔はガッテンだけでなく合掌も出来るんだと納得。
ことほどさように面白いので『あくび指南』本なのに読んでてまったくあくびは出なかった……えっ、この駄文を読んでたら退屈で退屈であくびが出た?
読者の方がご器用で。