「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」
『草枕』の冒頭の一節は日本が世界に誇るべき対談の精神そのものだ。
対談は相手を論破するためのものでも何らかの結論を得るためのものでもない。
互いの蘊蓄やら体験を交えつつ、言葉の向くまま心のおもむくまま一期一会の言葉のセッションを楽しむもの。個性よりはコラボレーションの妙、対立より協調、学術的、実務的であるより知的遊び心に富んだ文芸なのだ。
そんな対談の楽しさを存分に味わえるのが本書だ。
何しろひとりは喋りをなりわいとする落語家、もう一人は読経や説法が主たる仕事のお坊さん。しかも落語家はいまや古典であろうが自ら創作した新作であろうがピカイチの立川志の輔で、お坊さんは芥川賞もとれば対談集も出している才気煥発な玄侑宗久で、年齢もほぼ同じ。
この組み合わせだけでも充分期待がふくらむのだが、それに加えてテーマが落語ときてるからつまらなくなるわけがない。それが証拠に冒頭のやりとりからしてもうおかしい。
志の輔が開口一番「こうやって和尚と向かい合ってると、なんか今日は法事があったような気がするんですが」と茶目っ気たっぷりに言って笑いを誘うと、当の和尚はまじで火葬場から直行してきたばかりと打ち明け「つまりこれが、いい直会です」と返す。
直会とは神事の一つとも神事のあとの宴とも言われているけれど、どっちにしても神事がらみ。お坊さんがらみではない。
「禅宗は宗教のパンツのようなもの。禅宗というパンツの上にはどんな宗教を着たっていいんです」という考えの玄侑宗久ならではの飄逸な返しが笑いを増幅させるといった具合。
テニスでも相手の返球がうまいと日頃出来ないような思わぬ好プレーをしてしまうことがあるが、この対談もそうだ。
相手の発言に刺激されるうち思わず口をついて出た名言、至言が随所に見られる。
例えば「まくら」の章での欧米のスタンダップ・コメディ(一人が立って語りかける芸)と落語を比較した志の輔の発言。
「(スタンダップ)はぜんぶお客さんに向かって、『そうでしょ?』、『そうでしょ?』といちい念を押していく。これって『語りかけ』の芸ですよね。言い方を換えて、『押し』の芸としましょうよ。とすると落語は『引き』の芸なんですね。登場人物の会話だけの世界をこちら側で勝手にやってる。それを聴くほうがイマジネーションを働かせて、立体的にする」
その“引きの芸”は対談でも見事に生かされている。志の輔は決して持論を押しつけない。演者としての長年にわたる経験と深い洞察によってつちかわれた持論を慎重に言葉を選びながら述べ、かつ疑問型でむすぶ。
「じゃ、何で日本にこんな芸が生まれたかってことですけど、これは私の持論ですから、よそで言わないでくださいね(笑)。
日本が昔、ほぼ同じ言語だったからじゃないですかね。同じ言語同士の信頼感が、『物語を登場人物の会話だけで喋る』と『想像力を働かせながら聴いている』を同時にできる空間を実現できたんじゃないですかね。
ああ私、学者みたい(笑)」
これに対して和尚の発言は断定的で含蓄に富んでいる。
「(俳句のように)そのものの味わい方を、あれだけ読み手に任せちゃう形式というのも珍しいと思います。
つまり、そういう俳句なんてものが成り立つ国なんですよ、ここは。(中略)だから、落語が成り立つんです」
喝!
こうした“落語とはなんぞや”をめぐってのマクラ的な対談のあと、個々の落語のネタを俎上にのせての闊達な対談が繰り広げられる。
和尚はいち落語ファンの立場から直球や時にはビーンボールをビシビシ放ち、志の輔は演者の立場から右や左とそれらを丹念に拾いまくり、ユーモアたっぷりに返していく。
取り上げられているのはタイトルともなっている『あくび指南』、そして『茶の湯』『寿限無』『蒟蒻問答』『芝浜』『文七元結』『天災』『死神』『小間物屋政談』『浜野矩随』。