さて本稿の主役、短編集『不死の人』は、運命に翻弄される人間、というような主題が増え、多くは暗いトーンに覆われています。
冒頭に収められた短篇『不死の人』は、こんな話です。
古代ローマの軍人だった主人公が、砂漠の彼方に不死の人々の住む秘密の都を探しに行こうとおもいたつ。いくつもの都市を訪ね、いろんな人々を目撃し、いろんな体験をした。ようやくたずねあてた不死の人たちの都は、思索に閉じこもった人たちの都のまたの名だった。やがて主人公にも死が近づく、最後に残されたのは、言葉だった。
いかにもボルヘスらしい主題でありながら、同時にボルヘスのただならない実存の不安定をもまた感じさせます。
実は、この短編集が出版された1949年は、ボルヘス50歳。すでにペロン軍事政権が発足して3年目です。ボルヘスはペロンに反対したため政権成立とともに、ブエノスアイレスの場末の市立図書館の司書の職からも追われてしまいました。
なお、同書収録の短篇『神の書跡』にも、ボルヘスが被った受難の影が差しているようにおもえます。こんな話です。<カロホムの神官が、征服者の手で地下牢に閉じ込められ、苦労の末に、ジャガーの紋章のなかに神が遺した魔法の一文を読み取る>、そこに、自分を陥れたペロン政権への呪詛と嘲笑が聞こえてはこないでしょうか。この短編集のなかにの<運命><復讐>という主題は、不穏な輝きを備えています。
しかしそんななか、これもまた同書収録の短篇『アレフ』には、センチメンタルでロマンティックな魅力があります。ボルヘスのなかで数少ないラヴリーな魅力を放っています。
男は、愛する美しい妻ベアトリスに先立たれ、哀しみと憂鬱のなかにいます。かれは文学者。死んでしまった妻のいとこにいかにも俗物な、下手くそな文学好きがいます。男は義理でその男のヘボい作品につきあわされたりします。
そんなことがありつつも、地下室で男は「地上の一点でありながら世界の全てを包含する一点」を見つけます、それはほとんどパノラマのように世界のすべてが畳み込まれていました。もちろん男はそこで、死んだ妻に遭遇します。
なんて感動的な体験でしょう。しかし物語は淡々と終ってゆきます。「われわれの精神は穴だらけで、そこから忘却がしみこんでくるのだ。そしてわたし自身、寄る年波に侵蝕されて、いまではベアトリスの面影さえ歪めたり、ぼかしたりしているのである。」