読み聞かせをはじめたときに困ったのは、世間でいう〈読み聞かせにお薦め〉の本の規準が自分とずれていることだった。一言で表わすなら、なんかほんわりしているんだよな。ほんわり。いや、それで悪いということはないんだけど、私は小学生をひいひい言わせたいわけで、ほっこりさせたいわけじゃないからさ。あと、この間も言ったように、「イイハナシダナー」とか思ってもらいたいわけではない。
というのは、そういう読書体験は一人でやるものだ、という考えがあるからだ。たとえば、あずまきよひこの漫画を例にとって言うけど『よつばと!』(電撃コミックス)って、あれは一人で読むものでしょう。よつばととーちゃんのほんわかした日常を読んでにこにこしたいけど、ああおもしろいなあ、と思った瞬間に隣の悪友から「ねえねえ何読んでるのそれ、『よつばと!』? なにそれあははー」とか言われたら、そいつを殺したくなりませんか? また、あの作品は「ジャンボってでかいよねー」「ヤンダってウザいよねーマジ死ね」とか言いながら読むものではないという気がする。
人とわいわい言いながら読むなら『あずまんが大王』(少年サンデーコミックススペシャル)かな? でもあの作品だって、最終回はしみじみ一人で読みたい、いい話なわけだ。最後のページを読み終え、感動に浸りながら顔を上げたら、目の前で悪友がうまい棒明太子味なんかを食べてたらどうするどうする? さらにちょっと涙ぐんでしまったところを見られて「なになに泣いてるの? 泣いてるの? マジ泣きスゲエ」って笑われたらどうするどうする? とりあえず「なかったこと」にしたくならない?
一人で読む、というのはそういうこと。本の中には、大勢がいる場所で読むには向かないものがある。いや、訓練を積んだ読み手なら、目の前に「『ゲゲゲの女房』で水木しげるを演じている向井理の真似をしているつもりだろうがどう見ても棟方志功にしか見えず、隣で京極夏彦が微妙な表情を浮かべている荒俣宏」がいても敢然と無視して読書に勤しめるのである。しかし、私が相手にするのは小学生だからね。
そんなわけで読み聞かせを始めたばかりのころは、読み手として信用をおいている知人に聞きまわって情報収集をしていた。正直、あまり役に立つ情報はなかったのだけど、唯一「お、これは」と思ったのがこれだ。
ジョン・バーニンガム作/谷川俊太郎訳『いつもちこくのおとこのこ、ジョン・パトリック・ノーマン・マクヘネシー』(あかね書房)である。
デビュー作『ボルカ はねなしがちょうのぼうけん』(ほるぷ出版)でケイト・グリーナウェイ賞を受賞してしてデビューしたバーニンガムは、その後もさまざまな名作を世に送り出して世界的な人気を誇る絵本作家となった。代表作も数多くあるが、私が好きなのは作画を担当した初期の作品、『チキチキバンバン1~3』(冨山房)である。コラージュを多用してちょっと冒険をした画風で、後の作品よりも大人向けという感じがある。ちなみに文章を書いたのは〈007〉シリーズ作者のイアン・フレミングだ。フレミングの皮肉な感じと絵がよく合っているのですね。
数あるバーニンガム作品の中から『いつもちこくのおとこのこ』を選んだ理由は、推薦者の弁にある。学生時代からの友人であるB社のS君が教えてくれたのだが、「娘に読んでやったら、ジョン・パトリック・ノーマン・マクヘネシーという名前の繰り返しを聞くだけでゲラゲラ笑っていた」というのである。そうか繰り返しがあるのか。繰り返しがある本って、読み聞かせに向いているんだよな。
というわけで実際に読み聞かせをやってみた。
題名が的確に表わしているように、これはいつも遅刻をしてしまう小さな男の子が主人公のお話である。いや、ジョンだってしたくて遅刻をしているわけではないのだ。不可抗力なのである。彼が学校に向かう道にはいつもとんでもない邪魔が現れて、行く手を阻む。
たとえば、
マンホールから鰐が現れて鞄に噛みつき、手袋を片方投げたらようやく話してくれる。
もしくは、
ライオンが出現してジョンのズボンを破いてしまい、木に登ってようやく難を逃れる。
といった具合に。
遅刻をしてしまったジョンは正直にその理由を先生に言う。しかし先生は、「ジョン・パトリック・ノーマン・マクヘネシー、ちこくだね」と一瞥し(さっきの娘が笑ったというところはここだろう)、言うのだ。彼の言い分をまったく信じていないと。
「このあたりでは げすいに わになど、すんでおらん。いのこりして〈もう わにの うそは つきません、てぶくろも なくしません。〉と300かい かくこと。」
「しげみの なかの ライオン なんてものは、このあたりには おらん。すみに たって〈もう ライオンの うそは つきません。ズボンも やぶりません。〉と 400かい おおきな こえで となえること。」
そしてジョンは先生の言う通りにする。罰を命じられ、教室の隅に立っているジョンの絵を、バーニンガムはあえて着色せずに線画で描いている。それはジョンの傷ついた心のうちそのものなのだろう。どうして先生は信じてくれないんだろう。ぼくは本当のことを言っているのに!
この絵本に登場する先生は、鞭を持った、おそろしげな大人として描かれている。顔なんてまるで、ティラノサウルスのようだ。これも子供の気持ちを代弁しているのである。大人は怖い。そして理不尽だ。いつだって自分の言い分を一方的に押しつけようとしてくる。
もちろん先生の側がジョンを信じられないのも無理はない(だって、鰐に、ライオンだぜ)。でも、子供は信じてほしいのである。自分が何を言っても受け入れてくれる、包容力を求めているのである。
この本の読み聞かせは、二つの効果を呼ぶ。子供たちは、ジョン・パトリック・ノーマン・マクヘネシーの気持ちになってきゃあきゃあ喜んでくれるはずだ。ラストが痛快極まりないからである。これはぜひ読んで確かめてみていただきたい。痛快であると同時に、非常に優しくもある。あるページは、ジョンの心の平穏を示すために描かれている。彼の背景には、暗めの赤を使って描かれた空がある。暗いのに、穏やかだ。何にも心をかき乱すことがない、静謐な心境で眺めている空だからである。子供がそういう気持ちで空を見たいと願っていることを、大人は知っておいたほうがいい。
そしてもう一つの効果は、大人の心に反省を呼ぶということである。どこがどう反省を呼ぶのかは、これまでの文章を読んでくださった方にはあえて説明する必要もないだろう。ぜひお子さんに読んであげてもらいたい。そして、彼らがどんな目でこのお話に向き合ったか、そのことを忘れないでもらいたいのだ。
あ、編集者の人も読んでくれるといいな。そして「杉江松恋、また〆切に遅刻かね」って言うの止めて!