ここからは、1960年代後半に「反戦平和」という言葉がどう使われていたのか、そのにおいをかぐことができる。今よりもはるかに大勢が分かり合え、通じ合える言葉としてのまぶしさを持っている。しかし、それは半面、記号的でもある。さしずめ今なら「血液型、何型?」「B型」「あー、分かるー」というのに近い。私は、人類にとって普遍の反戦平和という価値観が、一種の「型」として語られうることに虚を突かれる思いがする。血液型が性格の違いとしてどう発現してくるのか、そのメカニズムが無視されるのと同じように、ブラックボックス化した言葉の危うさを感じる。
戦争は「型」を利用する。作者はタカたちが逃したB-52の射撃手にこう語らせている。「(横須賀から米海軍兵が脱走したことを知って)いざとなれば逃げられる。俺たちはみんなそう思った。だけど国を裏切るのはともかく仲間を裏切るのはそう簡単じゃない。危ないからってお前が逃げれば結局は仲間の誰かがその危ないミッション(空爆)に行くんだ。そう考えると逃げてはいけないという思いが強くなる」。仲間同士のきずなは共同幻想ではなく、確かに存在する価値ある実体である。戦争はそれを「国」という型に押し込めて、うまく利用する。国による命の動員を、仲間への責任という分かりやすく実感できる一般的な価値にすり替える。
口では「戦争は二度としてはいけない」と言いながら製作された映画が往々にして戦争賛美につながるのは、戦場における仲間同士のきずなを描いて観客を感動させようとするからだ。国であれ戦友とのきずなであれ何であれ、他に殉ずる行為を、その心情の限りでは美しく尊いと人は感じてしまう。社会的動物としての本能なのだろう。だからこそ、私たちは戦争による価値のすり替えを見分けなければいけない。理性によって、涙をねじ伏せなくてはいけない。
では、ひるがえって反戦平和も「型」でありえるとすれば、どういうことになるのか。私は、反戦平和を信条とする私自身の中に見つけた暴力への迎合を、再び思い出さざるをえない。本の中で、琉大の知花先生のグループが脱走兵の支援をする仲間の中に当局の「スパイ」が潜り込んでいたらどうするか、と話し合う場面がある。一人の学生が「理屈では殺すしかないでしょう」と言い、一同は悩み始める。反戦平和の名のもとに人を殺すことは許されるのか?
理屈で人が人を殺せるかどうかは分からない。しかし、理屈によって人に人を殺せと命じるのが戦争のやり方だ。学生たちの議論を聞きながら、知花先生は「どういう時に人はそれまでの仲間を殺すのか」と問いかける。1968年はその後、有名な安田講堂攻防戦にまで発展する東大闘争が始まった年でもある。理屈が他人のものであった場合、反戦平和といえども自分自身を押し込める「型」と化す。このあたり、巨大な軍組織を相手にスパイ活動をするフリーダ、朝栄、安南さん、タカという「4人だけの分隊」による戦いのありさまとも重なる、小説の大事な「読みどころ」なのであまり多くを語るべきではないが、個人として自立するか、あるいは組織の歯車となるか――作者はそういう二つの戦いのコントラストを鮮やかに浮かび上がらせる。
つらつら考えるに、平和を戦争の対義語として考えてはいけないということかもしれない。戦争の対義語は戦争のない状態であり、それは即平和を意味しない。戦争は平和の敵ではなく、そもそも敵がある状態は平和ではない。1968年から40年以上がたって、沖縄にはまだ米軍基地がある。小説の舞台となった嘉手納にはちょうど今、近隣の普天間飛行場(海兵隊基地)の機能を統合させようという話が日本政府から出ている。普天間をめぐる沖縄県民の意思はむろん「県外・国外移設」だが、これ以上突っぱねると日米関係=国益が損なわれると理屈をこねる人がいる。が、それは他人の勝手だ。平和を求めるのに理屈はいらない。
本の初めのほうで、フリーダはその後愛し合うことになるB-52パイロットのパトリックと二人、小さなセスナに乗って空のデートに繰り出す。フリーダ(パトリックにとってはジェイン)が久米島の飛行場に機を降ろすと、パトリックはベトナムの戦場と引き比べ、「平和だな」とつぶやく。そしてフリーダはこう語りをつなぐ。
「たしかにここは平和だ。静かで、誰もいなくて天気がいい。上と下でこんなに違うとあたしは考えた。(中略)上にいる間はどこへ行くのも自由だけど、でも飛ぶことと上から地上を見ることの自由しかない。下に降りれば、歩き回ったり、花を摘んだり、何か買って食べたり、家を建てたり、畑を作ったり、愛し合ったりできる。でもその場所に縛られていて、他の場所へはなかなか行けない。上から見るのはいつも他人の土地、降りて自分の土地にするところから生きるという苦労が始まる」
平和とは実のところ、生きる苦労であるらしい。平和であれば徴兵されることも、ただ一方的に命令されることもない。すべてを自由に自分で決められるが、逆にすべてを自分で決めなくてはならず、その決定に責任を負う(蛇足だが、その意味で人を殺してもとがめを受けない戦争は特殊である)。
平和のもとでは因果が保たれる。だから、あまり突拍子もないことは起きない。少なく働けば稼ぎは少ない。好きな相手には告白しないと先に進まない。始めなければ何も始まらない。それだけに人生は疲れるし、飽きもする。飽きるから駅前商店街に餃子の王将ができたくらいで大騒ぎし、行列を作る。平和は退屈だ。だが、それは少しも悪いことではない。
平和には「型」がない。あらかじめ与えられたストーリーはない。平和とはつまり、白紙の未来である。