古典文学をマッシュアップし、物語の大枠はそのままに、ゾンビを大量に紛れ込ませたのが本書『高慢と偏見とゾンビ』である。
『高慢と偏見』といえば、ジェイン・オースティンが19世紀初頭に発表した、イギリス文学史上に燦然と輝く古典名作である。その粗筋は以下のとおり。
田舎町ロンボーンに住むベネット家には、五人姉妹がいた。しかし姉妹の父ミスター・ベネットが死ねば、遺産は「限定相続」ということで、男系の親戚、すなわち遠縁のいとこコリンズに渡ってしまい、姉妹と母は屋敷を追い出されてしまう。ミスター・ベネットはまだまだ元気だが、将来に不安を覚えるミセス・ベネットは、娘たちを早く結婚させようと焦っていた。そんなある日、近所に裕福な青年紳士ビングリーが引っ越してくる。彼とベネット家の長女ジェインは惹かれ合う。一方、次女のエリザベスは、ビングリーの友人ダーシーと出会うが、ダーシーが高慢な人間にしか見えなかった。ほぼ同時に、コリンズがベネット邸を訪ねてきて、「限定相続の定めとはいえ、ミスター・ベネット亡き後に、親戚を家から全員放り出すのは後ろめたい」と、姉妹の誰かを娶りたいなどと言い出した……。
この後、物語は基本的に恋愛と結婚を巡り、人間模様が様々に交錯する。展開の骨組みだけ見れば、本書はラブコメそのものである。主人公のエリザベスを中心に、登場人物は皆活き活きと描かれており、読み口も柔らか、文学文学した晦渋さは全くない。しかしそこに様々な要素が溶け込んでいるのがミソで、特に、いずれの登場人物も、人間観察眼がケース・バイ・ケースで的を射たり外れたりするのが面白い。誰しも「高慢」と「偏見」を持ち、相手や情勢の真実をつかむのは難しいことを、オースティンは鋭く、しかしユーモラスに描いているのである。この他、当時においてはかなり先駆的な「女性の自立」の萌芽が見られるのも読みどころだ。かくして、刊行以来200年間、『高慢と偏見』は名作として語り継がれてきた。
しかし21世紀初頭、鬼才が現れてしまう。その名はセス・グレアム=スミス。
何をトチ狂ったのか、彼は『高慢と偏見』のベネット姉妹が少林寺拳法でゾンビと戦う場面を思い浮かべる。そしてそれを実際に『高慢と偏見』に持ち込むべく、著作権が切れているのをいいことに(?)マッシュアップを開始したのである。つまり、『高慢と偏見』の随所にオリジナルの文を挟み、オースティンの文自体も単語レベルでいじっている。お遊びにもほどがあるというものだが、細部までかなり徹底的に作り込んでいるので、『高慢と偏見』ののどかな作品世界は、ゾンビが跋扈する暗黒の黙示録的世界へと完全に塗り替えられてしまった。この結果、ストーリー展開の大枠はそのままに、「ゾンビ溢れるイギリスにおける、戦士たちのラブコメ」が我々の前に姿を現したのである。
中身についてもう少し詳しく書いておこう。舞台は17世紀末から18世紀末のイギリスの田舎町で、これは原点と同じ。ただし罹患したらゾンビになってしまう疫病が大流行していて、郊外にはゾンビがうようよ、油断していると脳味噌を食われる。ただし社会は崩壊しておらず、国王を頂点とする政府は機能しており、軍隊はナポレオン戦争に備えるのではなく、主に町や民衆をゾンビの群れから守るために存在していると設定されている。舞踏会やお茶会をはじめ、社交生活も活発だ――ゾンビがよく窓割って襲ってきますけど。
本書において、ベネット姉妹は、少林寺拳法の達人とされている。彼女らは中国のリュウ師の道場で修業を積んできたのだ。父の命令一下、彼女たちは「死の五芒星」なるフォーメーションを組んで、四方から襲い来るゾンビを勇猛果敢に撃退するのである。なお原典では淑女を自認していた彼女たちだが、『高慢と偏見とゾンビ』においては「戦士」を自認しており、町を闇の軍勢=ゾンビから守るため獅子奮迅の活躍を見せ、住民たちからの評価も高い。
一方、エリザベスの相手であるダーシーも戦士であり、剣を使って見事な腕前を披露している。加えて、ダーシーのおばであるレディ・キャサリンも、最近は地位が上がって実戦に出て来る機会が減っているとはいえ、伝説的な戦士である。エリザベスは初対面時、同じ戦士としてレディ・キャサリンに対して畏怖の念を抱いている。面白いのは、貴族であるレディ・キャサリンは日本式武術の使い手であることだ。彼女は屋敷にはニンジャを多く住まわせて手先として使役している。原典では、レディ・キャサリンがベネット家にメイドがいないことを馬鹿にする場面があるのだが、『高慢と偏見とゾンビ』でこのシーンは「ベネット家にニンジャがおらず、習得したのも中国武術である」ことを馬鹿にするよう改変されている。日本料理(ナレズシとか)も貴族の食卓に供されるから見ても、どうやら作品世界では、中国よりも日本の方が「高級」と認識されているようである。
なお先ほども述べたが、人間のゾンビ化は疫病のせいとされている。ゾンビに噛まれると「感染」するということで、襲われてその場では助かっても、後でゾンビになってしまう可能性があるのだ。実際、本書では、ベネット家の知人(『高慢と偏見』にも出て来た人物です!)がゾンビ化して大変なことになったりします。
というわけで、話自体はどう見てもB級ホラーなのだが、ベースとなるのがあくまでオースティンの文章なので、終始格調の高さが維持されているのが可笑しい。また全てのエピソードは、原典『高慢と偏見』のエピソードのパロディとして描かれている(つまり元ネタとなるシーンが存在する)。よって本章は――本書だけを読んでも十分に楽しめるが――『高慢と偏見』の後で読むと、破壊力が軽く3倍に跳ね上がる。シーンによっては呼吸困難になるほど笑えますが、それは全て「あの『高慢と偏見』の著名な登場人物たちが、こんなことやってる!」という笑いである。これぞパロディならではの愉しみに他ならない。
『高慢と偏見とゾンビ』は紛れもなくキワモノである。そこは弁解できない。よって嫌いな人は徹底的に嫌い抜くだろうし、何がどう面白いのかさっぱりわからず憮然とする人もいるに違いない。しかし好きな人は、呵々大笑しすっきりさっぱりし、明日を迎える活力を得ることができるはずだ。眉間に皺を寄せるばかりが読書ではない。『高慢と偏見とゾンビ』に浸るという、脳味噌の皺の数が減りそうな読書体験もまた、とても素晴らしいものと思う次第である。
なお念のため申し添えておくと、セス・グレアム=スミスは、『高慢と偏見』に、ゾンビと戦士という、どう考えても合いそうにない要素を意外に無理なくドッキングさせ、起承転結の明快な物語として綺麗にまとめている。「本書だけを読んでも十分に楽しめる」のはこのためだ。作者の腕は確かなのです。
グレアム=スミスの次回作は、『Abraham Lincoln: Vampire Hunter』らしい。これは完全オリジナル小説ということだが、タイトルからしてリンカーン大統領に無茶をさせる気満々です。翻訳されたら絶対に読むね。
200年前のオースティンの文章とプロットが本書の完成度に大いに寄与している(特にラブコメ面)ため、「新刊」として評価するに当たり、満点の進呈はさすがに躊躇するものの、ゾンビ好きは必読、オースティンのファンにもオズオズとおすすめしたい。☆☆☆☆★。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |