これまで読んだことがなかったので、森絵都初体験。児童文学からスタートした作家であり、表紙の感じからも女性らしい優しいニュアンスの物語であろうとの想像はついたが、読み始めて、これは中学生だったらもう読めるに違いない小説であるとわかる。で、おとなの読者としてはどうなの、ということになるが、結論を書く。とてもいい小説です。中学生からおとなまで、みんなに読んでほしい、掛け値なし。
その理由。
『ラン』は、心を閉ざしていたひとりの女性の物語。親離れという意味合いも含めた、心を開いたおとなへの自立が描かれる。
主人公は夏目環という二十二歳の女の子。両親と弟を交通事故で亡くし、その後いっしょに暮らした大好きなおばさんも病気で亡くした。天涯孤独。家族がいて、そこに甘えて親離れできないのではなく、いないからこそ、家族への思いが募り親離れできないのだ。
環は自分に籠った。大学も中退し、アルバイトで暮らす日々。無気力で、神経はささくれ立っている。そして、この世よりもあの世のほうを身近に感じてもいる。
誰だって、家族全員に先立たれてしまっては、こんな辛い状況に陥ってしまうだろう。設定としては、ズッシリと重いとてもシリアスな物語。
ところが。
環を語り手とした半分はファンタジーであるこの物語、シリアスはシリアスでありつつも、コメディ的な要素もちりばめられていて、読者は重い気分を抱えすぎることなく読み進められる。そして周辺の登場人物たちのキャラクターがマンガ的なまでに明快に設定されていることも、読みやすさやエンターテイメント性に直結している。こう書くと、底が浅いのではないかと思われてしまいそうだが、環の家族への切々たる思いは心の奥底からの叫びでもあるだけに、決して軽く流れてしまうような物語ではない。
読者は、心のなかに重いものを仕舞い込んで、周りの人間との社会的な折り合いにぎくしゃくした日々を過ごす環に対して、頑張れ、とエールを送ってしまうのだ。
といいつつ緩急自在。
そんなシリアスな気分になった次の場面では、環のひとり突っ込みギャグやら登場人物たちのボケ・ツッコミも炸裂するわけで、その度ごとに、読者はリフレッシュして頁を捲る、といった具合。
物語の核は重いのに、軽快ささえ感じてしまう、この展開。まさに素晴らしいバランスのプロフェッショナルな作品だと思います。だから、みんなにあまねくお薦めできる、というわけ。ちなみに何箇所か、環が読者に直接語りかけるセンテンスも用意されている。これにより、読者はますます環に近づいてしまう。当然、応援気分も盛り上がるというわけだ。森絵都のサービス精神の現れか、いやたぶん絶妙な計算なのだと思う。
さて物語に戻ります。
ここで詳細を書くわけにはいかないが、この物語のファンタジー性を象徴する実に突拍子なくも魅惑的な理由により、環の家族への思いは自らの40kmマラソンに託される。スポーツに縁のなかった環は、イージーランナーズという老若男女チームに誘われ、沖縄・久米島でのマラソンを目指すことになる。頑張れ、環。
やがて、ちょっぴりスポ根の様相も、チーム名どおりの緩さではあるが、呈してくる。このメンバーたちは前述したようにキャラ立ちが明快で、そのドタバタぶりは実に楽しい。作者は世間に対しての環の目をもう一度開かせるために、いろんな人生経験を経ての主義主張がぶつかり合ってしまう老若男女のメンバーを登場させた。なるほどね。
そして、このメンバーたちとのやりとりも最初はぎこちなかったが、次第に溶け込んでゆく環。やがて固い殻を脱ぎ、心をかよわせるまでになる。『ラン』において、環は家族への思いにひとつの区切りをつけ、現実の世界での人と人との温かな関係を取り戻す道のりを走るのだ。
涙と笑いを誘い、爽やかな感動を味わえる、ありふれていそうでまったくありふれていない物語です。それに、これほど誰にとっても読みやすく、面白い作品というのは、そうはないのではないか。児童文学からスタートした直木賞作家・森絵都の実力に脱帽。中学生以上の家には一家に一冊、決してオーバーではありませんよ。