震災後、東京の街からすっと人が消えて、また、少しずつ戻ってきた。お正月じゃないのにお正月のような非日常感がしばらく続いていた。
いつものように仕事をし、いつものように外食をしていた。混んでいる店はいつものように混んでいた。だけど何かが違う。自分の周囲の人たちは変わらないのに、何かが変わってしまった感じ。外国人がいなくなって、自分が初めて外国人になったような。旅先で暮らしているような、地に足がつかない特別な感触。だけど、自分には帰るところはない。
8日目、グレッチの音に癒された。癒しなんて言葉、嫌いなのにそう感じてしまった。テレビを消し、憑かれたようにアルバムを聴いた。音楽がたりなかったんだと気がついた。9日目、イタリアの新聞のトップを飾ったのは、福島の原発の写真ではなく、リビアの空爆の鮮やかな写真だった。ああ、日本がトップじゃなくなったんだな、と思った。鮮やかな写真のインパクトは凄すぎた。
そしてこれを書いているのは、もう25日目だ。
流されていくもの、書かれた瞬間から古びていくものは読みたくないと思った。一貫性があって、いつ読んでも変わらないものがいい。何かと裏切られることも多いので、とりわけ慎重になる。
中原昌也は、いつも変わらない感じが信頼できる。著者の言いたいことは「書きたくて書いているんじゃないことしか書きたくないことが、どうして、わかってもらえないのか」ということに尽きるんじゃないだろうか。「文学者にいくら小説が嫌いだと話しても、だれもわかってくれなかった」「僕がなぜ文学賞を三つも受賞したのだろう。全部、茶番だと思っている」。
この本は、著者の談話を編集部が構成したものだから、適当にしゃべっているライブ感がそのまま出ている。投げやりだけど、嘘がない感じだ。
青山に生まれ、東京でずっと暮らしているらしい。「ひどい家に生まれた」「あまり似たような家がないから、だれも僕の育ちはわからないし、共感もされない」「貧乏な都会っ子は不幸だ。共感は得られないし、生まれ変わることもできない。世界中のモノや情報が腐るほど視界に入ってきても、結局、手に入れることができない境遇。寂しくて、みんなが好きでないマイナーなものに想いを寄せるしかなかった」。私は寂しい気持ちになりたくないので、共感する!とはあまり言いたくないけど。
『死んでも何も残さない』というタイトルもニュートラルでいいなと思った。潔さとも弱さとも取れるけど、可愛い表紙を見ていると、これは弱さのほうだなと確信する。「貧しいから残せない」という話ではもちろんない。「残そうとする人は貧しい」という、とてもためになるお話だ。
10代の頃に著者が影響を受けたカルチャーの話は面白い。映画や音楽の話は、とりわけテンションが上がる。「僕の知っていることは、ほとんどだれも知らない記号である。だから、ノイズや映画の話はあまりしていない」「マイナーな領域については、固有名詞でしか語り得ないけど、どうしても抵抗がある」ということだけど、ミュージシャンとしての中原昌也ファンにはそのルーツがわかり、たまらないと思う。
特にイギリスのノイズバンド、ホワイトハウスに関する話は、ホワイトハウスの音を聴くよりも圧倒的に面白い(はず)。「首を絞められながらも、外に向かわず中に行くようなどんどん内に行くような、妙な解放感がある」「すべてに憎悪を込めて、ホワイトハウスを聴けば、黒いものがすべて発散された」
「わからないものはみんな偉そうで高尚なものだと思ったり、通向けのものだと思ったりする。この貧困さは何だろう・・・だから、自分の知らないことはみんな悪口をいう、僻み根性の人間ばかりもてはやされる」
「世界はどんどん多様性を失い、多くを感じない人のものになっている。人間が進むべき道は、どんな些細なものからも多くの意味を受け取ることだろう。しかし、現実は逆。資本主義のシステムを正当化しようとすれば少ない感受性の人間になるほかない」
「なぜ、みんな共感し合わなければならないのか。共感など全部うそっぱちだということを、率先して理解しなくてはいけないのに、逆だ」
「メジャーにいた頃から、人の共感を得ることの真逆に行こうと頑張っていた」
こんなことばかり言ってる人って、ちょっと変なんじゃないの?と思わないでもない。でも、実はこちらのほうがまともで、世の中の流れに器用に合わせていくことのほうが、明らかに現代の病。こんな鋭いセンサーを手に入れてしまったら、多くの人が目指すような少ない感受性での自己満足なんてできないし、したくもなくなるだろう。
著者が出演したノイズ映画『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』を見ればわかる。いきなり映画に出て、あんなに普通な感じに映る人って、いないんじゃないか。
「青山だから、自然に帰って農業とかいうわけにもゆかない。暗いところに生まれてしまった。寂しい気持ちにしかならない。とにかく、自分ができる範囲のことが社会に役に立っている実感を持ちながら、人並みぐらいには稼ぎたい。そういう欲望が満たされればいいのだけど。まあ、今はカフカの『アメリカ』の主人公の少年、カール・ロスマンのような放浪者の境遇か。あの小説には泣く」
そうか、中原昌也はカール・ロスマンなんだ。『アメリカ』は、世間知らずで誇り高いカール・ロスマンが、故郷を追われ、理不尽な階級社会にぶつかっていく物語だ。身なりがよく、外見と主張が一致している当初は何の問題もないが、次第に不当な扱いを受けるようになり転落は早い。カール・ロスマンの周囲は、壁のように見える。彼を認める人、認めない人、見捨てる人、たかる人、すがる人、巻き込む人・・・すべてが類型的な役割を演じているようにしか見えない。塗りこめられた壁のような状況の中で、彼だけが人間らしく生き、あがいている。
媚びない。共感を求めない。それだけでオッケー。マイナスのオーラにデトックスされる。マスメディアやインターネットに疲れたら、中原昌也へどうぞ。