フィンランドの作家、トーベ・ヤンソンに「往復書簡」という作品がある。その名のとおり書簡体の小説だが、題名とは異なって「往復」はしない。小説は、十三歳の少女タミコ・アツミがヤンソンに出した手紙が(おそらくは)年代順に並べられた形で構成されており、ヤンソンが出した返信の内容はタミコが綴った文面から察する以外にないのである。
作家に憧れ、いつかその家を訪れたいと願うタミコに、ヤンソンが贈った言葉も。
――ヤンソンさん
すばらしい手紙をありがとうございました。
フィンランドでは、森は大きく、海も大きいけれども、
あなたの家はとても小さいこと、よくわかりました。
作家の書いた本のなかでこそ作家と出会うべきだ、
というのはすてきな考えです。
一日じゅう、勉強をしています。
元気で、長生きしてください。
あなたのタミコ
タミコ・アツミが実在するか、この逸話が現実にあったものかどうか、といったことはひとまず関心の埒外です。ヤンソンがそのとても小さい家の中で(一九六〇年代以降の彼女は、フィンランド湾の沖合いに浮かぶ孤島で暮らしていた)、どのように大きな世界を作り上げていたのか。そのことに私は興味を引かれるのである。
この「往復書簡」はちくま文庫『トーベ・ヤンソン短篇集』に収録されているので簡単に読むことができる。いや、言いなおしましょう。簡単に手に取ることができる。読むのはあまり簡単ではないかもしれない。ヤンソンの小説はぎりぎりまで言葉が切り詰められた文体で書かれており(だから読者は、かなりの部分を自分の想像で補って読むことを求められる。それが心地よいのだが)、あらすじを追いかけられないと不安になるタイプの読者にはややとっつきにくい印象があるからだ。訳者あとがきにあるとおり、〈子ども時代〉〈創作〉〈奇妙な体験〉〈旅〉〈老いと死の予感〉という五つの主題に沿って各作品は分類することができ、それらがグラデーションを描くように配列されている。
もっともとっつきやすいのは〈旅〉の主題を振り当てられた作品群だろう。物品の取り違えや、些細な感情のもつれから紛糾する事態を描いたものが多いのだが、「見知らぬ旅」「軽い手荷物の旅」の二篇は故・浅倉久志の〈ユーモア・スケッチ傑作選〉に採ってもいいような作品だ。「汽車の旅」は、二十年前の学生時代に級友のヒーローだった男と主人公が車内で偶然の再会を果たす話で、後半にいくにしたがってヤンソンの筆は「巻き」を入れ始め、最後はゼンマイの切れたからくり細工のようにぱたりと終わる。あまりにもあっさりした落ちなので作者の意図を汲み取りにくいのだが、話の前半で主人公が、その級友を崇拝するあまり彼と自分を登場させたロマン小説を書いていた、というエピソードが書かれていたことを思い出すと、なんとなく察せられる(ような気がします)。ちなみに主人公は、その小説を書き進めることができず、草稿の処分に困った挙句、ついにスーツケースに入れて海に投じることを選択するのである。
――スーツケースは海の底まで沈み、ゆっくりと時間をかけて縫い目がゆるんでいく。戦時中の品で革を模した厚紙製だから。やがて表表紙から裏表紙までびっしりと埋められたノートが、一冊また一冊と港の外に流れていく。うまく風向きが変われば、ノートはれヴァルまで、あるいはさらに遠くまで運ばれていくかもしれない。
海中のスーツケースという奇矯なイメージもさることながら、ノートに記された物語が流れ去っていくという結果にも興味を惹かれる。紙の上に定着された物語が本として世間に広まっていく中で、作者自身からは切り離され遠い存在になっていくということの隠喩に感じられるからだ。
少し脱線するが、私は最近「ハヤカワ・ミステリマガジン」二〇一〇年十一月号の北欧ミステリ特集に「トーベ・ヤンソンの半分は不安でできている」という文章を寄稿した(誰にも指摘されなかったが、この題名は某医薬品のセールスコピーのパロディです)。童話として読まれることが多い〈ムーミン谷〉の物語に、実は彗星が接近して世界が滅亡しかけるなど、〈災害小説〉の側面が備わっていることを紹介したもので、シリーズ後期の作品『ムーミンパパ海へ行く』(講談社文庫他)がサスペンス小説として如何に優れているか、を読者に伝えたくて書いた。その際に字数が足りず、シリーズの実質的な最終作『ムーミン谷の十一月』(同)に触れることができなかったのである。ちょっとそれについて書かせてもらいたい。
前作『海へ行く』でムーミントロールの一家は灯台がある孤島へと移住してしまった。『十一月』は、そうした理由で主が不在になったムーミン家に、ひとびとが集まってくるという話だ。象徴的なのはホムサ・トフトで、彼はしあわせなムーミン一家の登場する物語を自分で作って自分にしてきかせるのが大好きなのである。だが彼は、空想の中でムーミン家に近づくことはできても、肝心の屋内にまで入り込めたことがない。本当に戸口のところまで接近しながら、どうしてもその先に踏み込むことができなかったのだ。ついにホムサは決心をして、実際にムーミン家を訪ねようと旅に出る。このように、ムーミン家にやってくるのは、そこに来れば何かが解決する、ムーミン一家に会えば自分の人生がなんとかなる、といった思い込みを抱えた者ばかりなのである。目的地で顔を合わせた〈ムーミン・ファン〉たちは、なんと不在の一家の代わりにそこで暮らし始める。あたかも、自分たちが新たなムーミン一家であるかのように。
物語を未読の方のために結末を書くのは控える。しかし私は、この小説をヤンソンにとっての〈解放〉の作品だと思って読んだ。ムーミン一家をヤンソンから解放してやったのであり、逆にヤンソンがムーミン一家から解放されたということでもある。
訳者あとがきに頼って書くが、『トーベ・ヤンソン短篇集』に収録された作品は、ほとんどが〈アフター・ムーミン〉の時期に属するものだ。実は、原稿を書かせてくれた「ハヤカワ・ミステリマガジン」には申し訳ないのだが、「ミステリー好きの読者をヤンソンに誘導する」意図で原稿を書くべくしてこの短篇集の再読を始めたにも関わらず、本を読みながら私は自分の心が「ミステリーから離れていく」のを感じた。いや、その言い方はミステリーに失礼か。もっと正確にいえば、小説ではなく、小説の外側に広がっている、もしくは広がっていると見做されている、小説自体ではない小説の要素から、である。そこから離れ、これをなんのために読んでいるか、という当初の読書の目的からも離れ、私はヤンソンの短篇の一つ一つに没頭していった。もっとエロチックな表現を使えば、悩殺された、と言ってもいいかもしれない。先に挙げた、訳者が設定した五つの主題も、もちろん作品世界のドアをノックするための便宜的なものだろう。ヤンソンの小説を読んでいる、ということ自体に淫することができれば、この上ない快楽を本書は与えてくれる。
いくつかお気に入りの短篇を挙げておきたい。まず、文句なくお薦めしたいのが「ショッピング」である。謎の原因によって荒廃し、人気の絶えた街でバリケードを築いて暮らす夫婦の短い物語だ。彼らのほかに〈あいつら〉と呼ばれる者たちが街にはいるらしいのだが、その正体は一切明かされない。読んでいて、猛烈な不安感を掻き立てられる作品なのである。そうだ、この宙吊りにされる感覚だ。この不安感を味わいたいがために、私はおそらくヤンソンの小説を読むのである。「嵐」というのも大好きな作品で、ある女性が壮絶な嵐の中で一人夜を過ごす、というだけの物語である。これも省略の技法ゆえに、最後が意外極まりない落ちになっている。吹きすさぶ嵐の後に訪れたのは、こんな光景だったのだ。
――翌朝の七時頃、風がやんで雪が街に落ちてきて、街路にも屋根にも彼女の寝室にも降りつもる。彼女がめざめると、寝室はどこまでも白く、すばらしく美しかった。
ヤンソンが自身の芸術観を表わしたものか、または芸術家の典型についての皮肉を示したものか、その判断は私にはできないのだが、〈創作〉もしくは〈創作者〉を主題に据えた作品もある。「自然のなかの芸術」はモダンアートの開かれた解釈可能性について楽しく(美術館の庭園内に違法侵入した夫婦と警備員の会話の形で)書いたものだ。また、留学中の創作者の孤独な生活を描く「絵」は、画家が父の元から旅立ち、またその父の元に帰り着くまでを早回しのフィルムのように描いた、緊張と緩和のテンポが素晴らしい作品である。子供時代のことを書いたと思われる「森」も、創作という行為によって始原的なイメージの広がりを限定的に切り取り、作品として定着させることへの畏れを描いた作品として私は読んだ。また、偏執狂的な熱情を書いたいくつかの作品も〈創作〉に関するものとして読むことはできるだろう。「聴く女」は、人生の終焉を意識するようになった女性が、一族郎党を中心とした壮大な人間地図を書く話だ。
どこを切っても創作という行為についての狂おしいまでの熱情を感じる。冷え冷えとした空気の中に、あたりを制圧するような威厳を漂わせながら、そうした意志が流れていくことを思う。凛とした言葉の数々に触れ、世界の広がりを感じるのだ。
冒頭に挙げた「往復書簡」もまた、ヤンソンらしき飛躍と断絶を伴って終了する。最後にヤンソンの下に届けられたタミコの手紙は、こんな書き出しで始まっている。
――ヤンソンさん
一日じゅう、雪がふりました。
雪について書けるようになるでしょう――