世の中には、大きく分けて、猫好きと犬好きがいるようだ。当然、猫派と犬派とでは性格もちがうのだろうが、私にはよくわからない。分かっているのは、私の周りには、圧倒的に猫好きが多いということだ。ちなみに、クラフト・エヴィング商會の吉田浩美は猫派、吉田篤弘は犬派だということです。
この本は、犬についてのエッセイや小説を集めたもので、元になった本は、昭和29年に中央公論社から出ている。吉田篤弘による「はじめに」でも触れられているが、その元本は、古本屋でもあまり見ない本で、確か新書サイズの小さな本だったと思う。ネットで検索してもタイトルが「犬」、著者が複数なので、そんなところにもなかなか見つけにくい原因があります。
でも今回、クラフト・エヴィング商會がアレンジして文庫化してくれたおかげで、より多くの人の目に触れるだろうと思う。犬好きの人だけでなくもっと広く動物好きの人にも読んでいただきたい。旅に出るとき、一冊バッグに入れておき、駅のホームなどで、ゆっくりページを開きたい、そんな文庫になっていると思う。
執筆者は、阿部知二、網野菊、伊藤整、川端康成、幸田文、志賀直哉、徳川夢聲、長谷川如是閑、林芙美子、の9人で、それぞれ、飼っているあるいは飼っていた犬への愛着ぶりが伺え、とてもユニークで面白い。やはり小説家、批評家は、動物を見る目も独特で、またそのことを言葉によって巧みに表現している。ときに直情ともとれる、飾りのないストレートな犬への思いが、そのまま、現れているのも、犬への愛情のなせるわざで、読む方とすれば新鮮な発見でもあった。小説では、すべてをコントロールしている作家が、自分の犬については、思わず感情にまかせて書いている。
犬の特性としては、ほとんどの人が人間に忠実なところをあげ、犬の嫉妬深いところなども、経験として語られている。犬がいかによくその主人の気持ちを理解しているか、とか、嫉妬などで行方不明になった犬を探すときの飼い主の気持ちなどは、複数の方が触れていたことで、一般にも理解しやすいことだと思う。
次に、私が読んで最も興味深かった、川端康成の文章を例にとって、紹介してみよう。川端康成の文章は、「わが犬の記」と「愛犬家心得」の二編が選ばれている。昭和7年と8年に書かれたもので、軽いエッセイではあるが、川端康成の個性がこんなところにも、はっきり出ている文章であった。
まず川端康成が犬を飼うようになったのは、散歩の道づれがほしいということと、自分の神経質をなおす助手を求める気持ちからだったという。自分は神経質すぎて愛犬家にはなれないのだとも川端は書いているが、その愛情、観察、を読めば、かなり犬に入れあげているといっていい。愛犬家の名に相応しいと感じた。犬を観察する川端の眼は、次の文章に見られるように、川端の文学世界につながっているのだ。
【そして勿論、たいていの犬の美しさは、犬が神経質であるといふ点によるところが多い。けれども、人間の神経質と動物の神経質とはちがふのである。動物の神経質といふものは、かがやく明るさの美しさなのである。そして、街頭に野放しされている犬よりも、家のなかに愛育されている犬の方が、反って野性の純潔さを保っているものである。】
特に後半の文章などは、川端康成のものの見方、考え方が、犬にまで当てはめられていて、ある意味不気味なほどである。人間によって愛育されている犬の方が野性の純潔を保っていると考えるのは、実に川端康成らしいと思う。ここのところは、一度犬好きの人に意見を聞いてみたいところだ。
また、犬の特性を人間への忠誠とみるのは川端も同様で、全く揺るぎのない文章になっている。例えば、「犬は犬より人間が好き」、「人間の飼い主への愛情は全く没我的」、「人間を愛するために生きている」、「人間への愛情は本能的に子犬のうちに目覚めている」、などなどである。猫派にとってみれば、だから犬は嫌なのだ、ということになるのだろうが、数多くの犬を飼って実感したと思われる感想なので説得力がある。川端康成の家には、歯茎を見せて笑う犬や涙をぽろぽろ流して泣く犬がいたという。川端康成にかかると、まさかと思うようなことでも、疑うことができない。これも文章の力なのだろうか。
私は動物が苦手なのですが、犬なら飼ってみてもいいかな、と思うようになりました。だから犬派といっていいかも知れません。姉妹本としてでている『猫』を読めば、また変わるかも知れませんが。
この本のカバーデザイン、また本文でも「ゆっくり犬の冒険―距離を置くの巻」を担当しているのは、クラフト・エヴィング商會である。吉田浩美、吉田篤弘による制作・装丁ユニットであるが、最近では装丁だけでなく数々のエッセイ集も出版し、物語作家という側面も見せている。