ある日部屋に熊が訪ねてきます。女の人はそれでどうするかというと、家にあがってもらい話を聞いてあげるのです。早川司寿乃さんの『いつも通りの日々』を読んでいると、そんなこともごく普通のことのようです。熊は春になるまで女の人の家に居候して、また山に帰って行きます。それでおしまいかと思うとそうではなく、それからもたびたび遊びに来たりしているのだそうです。
ある日大掃除のときに、おじいさんのやかんを見つけます。主人公の女の人がまだ子供のときに、学校から帰ってくるとおじいさんが甘い飲み物を作ってくれたやかんです。なつかしくなってきれいにみがいていると、中から妖精のような小さな人が出てきます。そして一つだけ願い事を叶えてあげるというのです。大晦日の夜、除夜の鐘を聞きながら女の人は願い事をします。「おじいちゃんが私にくれたようなしあわせが、雪のひとつぶひとつぶにのってすべてのものに届きますように」と。そしてその妖精のような人はどうしたかというと、女の人のところにずっとい続けているようなのです。
たとえば、小さいときから雷様の好きな妹のいる女性が出てきます。その妹はどうしたかというと、やがて大人になって、雷神様と結婚するのです。もくもくと湧き上がる入道雲の上に立って合図する妹を今でもときどき眼にするということです。雷が好きだという女性を初めて知りました。
こんな風に早川さんの描く世界では、不思議は日常の顔つきをしています。すまして置物のふりをしている不思議なものの背中をこんこんとたたけば、ばれたかというようにまた元に戻って頭をかきそうです。不思議は生き物で日常は置物、早川さんの絵には昔からそういうところがありました。
ぼくが初めて早川さんの絵を見たのはぼくの友だちの家でした。二十五年も前のこと、名古屋でギャラリーをやっていたその友だちの台所の壁にかけてあったのです。早川さんの絵には言葉に近いものが含まれていました。その絵に含まれていた言葉が文章になって、本になったものがこの『いつも通りの日々』なのだと思います。十四のお話のすべてが、あのときはじめて見た絵の中にあった言葉のようです。早川さんはずっと絵でお話をしてきたんだと思います。
絵には遠近感があります。でも早川さんの絵にあるのは時間的な遠近感です。不思議が日常の顔つきで描かれるまでの時間がもつ遠近感です。早川さんの記憶の中には、不思議が日常の顔をしたついたてになって等間隔に並んでいます。『いつも通りの日々』に登場する主人公たちもみんなこの等間隔の感覚を持っています。だからどんなことが起きてもあまり驚かない。一日が二十八時間になっても、空き家になっている隣の部屋が森になっていても、みんなそういったことを日常と同じように受け入れていきます。
そしてどの人にも共通しているのが、ぬくもりを求めていることです。「雪の日」では熊の寝床にもぐりこみます。「猫」では手に抱いた袋の中のパンのぬくもりが子猫になります。「やかん」で見つけたやかんをキュッキュッと音がするくらい拭いたのは、きっとそのやかんでおじいさんが作ってくれたような温かい飲み物をつくってみたくなったからです。そして「銭湯」では、何もかも変わってしまった故郷の町に戻って来た青年が、昔町にあった天体観測が趣味だった主人のいた銭湯につかりながら自分を取り戻していきます。変わってしまったのは町ではなく、ずっと他所の町で働いていた自分なのだというように。
早川さんのお話では、場面がついたてのように変化していきます。スペースが限られた、デパートにある美術館のように、催し物のたびについたてや明かりを駆使して、絵や作品にあった世界を準備し、読者がその中を巡り歩く道筋を作ってくれます。壁にかけてある年表を見ながら、読者は少し時間旅行者のような気になるのです。そういえば『いつも通りの日々』に登場する人たちもまた時間旅行者のようです。早川さんの世界では、読者と主人公は似ているのかもしれません。だからこそ主人公が体験した不思議なことも日常のように感じられるのでしょう。
十四のお話の中には、ぼくがモデルの歌うたいが出てくるのがあります。「彼はひとつの言葉でいろんなことをうたいました。彼はいろんな言葉でひとつのことをうたいました。」主人公の女の人が口にする、お話の中の一言だとしても、なんだかうれしい言葉でした。