若いころに生まれた土地を離れてひとりで生活するという経験は、その人にかけがえのないものをもたらすようだ。学生時代を京都で過ごしましたとか金沢の犀川の近くで下宿してました、などと楽しそうに遠くを懐かしむように語る人をみているとそう思う。そのひとの以後の人生において、そのことを思い出すだけで夢見るような幸せな気持ちになれるとすれば、何をおいても人は家を飛び出すべきではないか。
本書の著者、徳永康元も二十代後半の二年余りをハンガリーのブダペストで過ごすという、特別な時間を経験している。東京大学文学部の言語学科を卒業し、東大図書館に勤めたのちのことである。1930年当時の東大にはハンガリー語の講義はなかったようで、徳永康元は独学でハンガリー語、ハンガリー文学を勉強したという。彼がハンガリーに興味をもったきっかけは、ジャック・フェデエの映画「面影」だったというが、面白いのは、この映画を自分で観たのではなくて、友人に内容を何回も聞いているうちに何度も見たと思うようになったというところだ。そのあたりのいきさつも何だかほのぼのとして個性を感じた。数々のハンガリーに対する強い思いが準備としてあるので、留学という経験がより充実したものになったのは間違いないだろう。
『ブダペストの古本屋』に書かれてあるのは、何も古本屋の話だけではなくて、ヨーロッパ紀行、音楽随想、自伝的回想など幅広いものになっている。それぞれ楽しく読めるのは著者自身が本当に好きなこと興味あることだけを書いているからだと思われる。それが読み手に伝わるのは文章の力でもあるのだろう。ハンガリーのことをほとんど全く知らない私でも著者に案内してもらいながら読み通すことができた。
本書は、古稀を機に、雑誌、新聞、などに書いた文章を集めたというのだから、それまでは学究の人だったのだろう。大学で教えながら書きまくっている人ではなかった。そんなことでさえこの著者の魅力だと思いたくなる、そんな『ブダペストの古本屋』であった。全体を読んで思うのは、時間をかけて蓄えたものが文章に漂っていること、そして、彼のハンガリー留学の思い出が核になっているのだということだった。
私は、本書の最初の文章である、モルナールと「リリオム」、を読み終えた時点でもう徳永康元の文章に夢中になっていた。ハンガリー出身のこのモルナールという劇作家の一生を短い文章のなかで描いて見事だった。思いつきのそのときだけの興味じゃなく、若い頃に日本の劇団「築地座」の上演を観たときの感激が元にあって、徳永自身が興奮して書いているのがよくわかった。エッセイで大切なのはそういうことだろうと思う。
そのあと、森鷗外が翻訳した、モルナール作品のことや、ハンガリーの作家レンジェルのことに話がつながっていく。鷗外ともなると、何を翻訳したかというだけで引きつけられる。
音楽随想では、留学当時の音楽会の話が興味深い。リストの直弟子エミル・ザウアーを二回聴いたというのだから、時代を感じる。うらやましいと思い思い読んだ。圧巻は、バルトークのピアノリサイタルの話だ。バルトークはこの演奏会のあと亡命したのだから、ハンガリーでの最後のリサイタルを聴けたというのだから特別な経験といっていい。おそらく録音も残っていないだろう。徳永康元は日記を書いていたので、そのリサイタルの曲目も書き記されて貴重である。ハンガリー留学のときに買った本は戦災で焼いてしまったというのだから、よくぞ日記を持ち帰ってきたものだという。
徳永康元はヨーロッパだけでなく、日本の古本屋めぐりもよくしている。そこでは、愛読する、上林暁の本を探したり、芥川龍之介がこれをまとめるのに命を縮めたといわれている『近代日本文藝讀本』を揃えたり、中戸川吉二の『団欒の前 外二篇』を掘り出したりしている。こういうところを読むと、ハンガリー関係だけでなく日本文学の造詣も深いことが感じ取れる。
また、自伝的回想「私の洋書遍歴」は、外国語習得に興味をもっているかたが読んで楽しめる文章になっている。徳永は中学校で英語を習い、高校ではドイツ語を勉強したという、そんな語学遍歴を聞くのも楽しい。
どこを旅しても楽しそうに古本屋に立ち寄る徳永康元を考えると、若いころに家を飛び出し一人で生活することと共に、古本に興味をもち古本を探し求めるこころを養うということも、自分を支えてくれるものとして、たくさんの人にすすめたい、とそんなことも考えた。
徳永康元 1912〜2003年 ハンガリー文学者 東京外国語大学および関西外国語大学名誉教授 愛書家、古本通として知られ、また文学以外の映画、音楽、演劇にも造詣が深い趣味人でもあった。