詩が変装をして、物語のコンテストに集まって来たような短編集である。特に前半の「海に住む少女」や「飼葉桶を囲む牛とロバ」や「セーヌ河の名なし娘」や「空のふたり」などは、変装がまるわかりで、散文なのにどうしても詩を読んでいるような気分になってしまう。
「海に住む少女」は「この海に浮かぶ道路は、いったいどうやって造ったのでしょう」という書き出しで始まる、十四ページほどの短いお話である。東京湾に浮かぶアクアラインのようなものを最初は思い浮かべるが、水深6000メートルもある大西洋の真ん中にあるとなれば、これは架空の道路だと納得するしかない。そこに12歳ぐらいの少女がたった一人で住んでいる。毎日パンを食べたり、学校に通ったり。だけどこの海の上の町にはパンを焼く人も文法を教える先生もいない。海の上では波にだけ目玉があって、少女を間近から見守ってくれている。
少女がそんな海の真ん中にいる理由は、お話を最後まで読めばよくわかる。人は失った人のことをあまりにも強く思えば、その人の影のようなものが生まれて、この地上のどこかで生き始めるのかもしれない。十二歳で死んだ少女の父親は船乗りで、少女のことがどうしても忘れられなかった。長い航海の間、思い続けたおかげで、少女は海に現れ、人の目には見えない海の上の町で暮らすようになった。
少女の名前はなんとかリエヴァン。それはこの少女のお父さんの名前がシャルル・リエヴァンだから。だけど少女は生きていたときの影のようなものだから、自分がなんとかリエヴァンだったことも、お父さんがシャルルだったことも覚えてはいない。勘のいい読者なら、少女の部屋にあった絵葉書の差出人の名前がC・リエヴァンとなっていることから、少女はこのリエヴァンさんの娘さんなのだと思ったかもしれない。でもぼくはシュペルヴィエルの上等なワインのような文体に酔っていたので、そこまで注意深く読むことはできなかったけど。
ある日水平線に本物の貨物船が現れる。貨物船が近づいてきて、海の上の町を横切るとき、少女は水夫に向かって「助けて」と叫ぶ。思わずそう叫んだことで、少女は助けてもらいたいという自分の気持ちをはじめて知る。そのまま海の上の町の少女でいることは、死よりも実体のないことだから。それはとても不幸なことなのかもしれない。見るに見かねた波は、死の力を借りて少女を救おうとするが、実体のないものは波にも殺すことができない。
「セーヌ河の名なし娘」に登場する十九歳の娘も、海に住む少女と同じように実体がない存在だといえるだろう。彼女はセーヌ河で溺死して、そのまま海の底まで流される。死体になった彼女は、体が十分に水を含み、二度と水面に浮かび上がらなくなるまで、足首に鉛の玉を結びつけられる。大勢の死者たちが裸で生きているのに、彼女だけは生きているときのままの服を脱ごうとはしない。周囲の死者たちの悪意に満ちた態度に耐えられなくなった娘は、足首の鉛を外す。実体のない長い旅を終えて、今度こそ本当に死ぬために。
「空のふたり」では、実体のない天上の世界が描かれる。そこでは音が聞こえず、しゃべっても誰にも聞こえない。物を持つことができないし、誰にも触れることができない。人々はみんな影のような存在で、地上のコピーのような町をただ行き来するだけ。そんな天上の世界で、ある日シャルル・デルソルは生前好きだったマルグリッド・デルノードに再会し、物を持つ力や感触を取り戻し、キスをする喜びを知る。
この他にも七つの、この世のものとは思われないような、残酷で悲しくてやさしい物語が収められている。「海に住む少女」では語り口がファンタジーのようだが、「ラニ」ではガルシア・マルケスのようだ。シュペルヴィエルはフランス人だけど、ウルグアイで育ち、生涯そのふたつの国を行き来したという。だから「海に住む少女」がフランス的なのに比べて、「ラニ」や「足跡と沼」が中南米的なのはそのせいかな、と思ったりした。言葉が歌っているようなところがあって、それがとてもきれいだと思えるのは、シュペルヴィエルの文体のせいなのか、訳者の日本語のせいなのか、フランス語のわからないぼくには判断がつかないけれど。