冒頭から立て続けに、3人の女たちのそれぞれの情事が描写される。いきなりのコアな展開に面食らうが、つかみはオッケー。で、彼女たちの人生はどうなるのか? この小説は情事、つまり終わることを前提にしているとしか思えない恋愛からスタートする<女の人生すごろく>なのだ。
彼女たちは、3人とも「ニュースEYE」という番組に関わるアナウンサー。スキャンダルとのギャップが際立ち、妄想をかきたてる存在である彼女たちは、スタイリストと一緒に服を選び、テレビカメラの前に姿態を晒す。それは、秒単位の仕事。くよくよ悩んでいるひまなんてない、メディアの最前線だ。
「台風の被害速報のあとに、ハイブリッド車のCMが流れる。児童殺害事件のあとに、ファンデーションのCMが流れる。政治家の汚職事件のあとに、胃腸薬のCMが流れる。新型インフル騒動のあとに、携帯電話のCMが流れる。これ欲しい? これ欲しくない? なにが欲しい? なにも欲しくない?」
女子アナたちの情事のお相手は、オレさま系、野球馬鹿系、ストーカー系の3人。ダメな恋愛の典型的なパターンが描かれるといっていいのだが、破滅への予定調和な既視感にあふれながらも、ダメと片付けられない恋愛の魅惑的な部分がきっちり描かれているのがナイス。こんな男たちとつきあう3人を、少しでもうらやましいなと思ってしまったなら、それは、あなたもこんな恋愛にはまってしまうかもしれませんよってことなのだ。一見薄っぺらくて、わかりやすくて、早く読めるからといって、この小説をなめてはいけません。
「ニュースEYE」のメインキャスターの、あまりにステレオタイプな描写も笑える。チェスターバリーのスーツを着た彼は、オンエア後、女子アナや番組スタッフらを和食屋に誘い「こだわり無農薬野菜盛り合わせ」「湯葉出汁巻」「トラ河豚刺」「昆布森牡蠣」「キンキの煮付」「鮑のステーキ」「黒毛和牛網焼」「白子天麩羅」「網走湖初物わかさぎ天麩羅」「百合根饅頭と生うにの生海苔餡」「生鮪脳天刺」をノンストップで注文し、アメックスのブラックカードで支払い、全員が見送る中、マネージャーが運転する真っ赤なエンツォ・フェラーリで帰って行くのだった。
そう、『オンエア』は、旧態依然としたTVというメディアや、ある種の鈍感さを特長とする旧世代の肉食系男子の懐かしさと危うさ ― つまり、絶滅寸前の文化の残り火を描いた小説なのだ。
3人の女子アナは、それぞれ別の失敗を犯す。誰も幸せにならないのに、アナウンサーという職業が、女性たちの憧れを誘うきらきらした場所であり続けているのは皮肉的だ。スキャンダルで降板するお天気キャスターの開き直りは、この小説のひとつのキモだろう。上巻の帯コピーには「山本モナ絶賛!」って書いてあるし。
「わたし、悪いですか? どこが、悪いですか? 失敗しただけですよね? 成功できないひとが、わたしの成功に反感と敵意を抱いて、わたしの失敗に拍手しただけなんじゃないですか? わたしのスキャンダル記事を書いたあなたの手は、さぞおきれいなんでしょうね? わたしの裸の写真が載った週刊誌のページをめくったあなたの手は、さぞおきれいなんでしょうね?」
3人に共通するのは<失敗するけど負けない>ということだ。負けないからこそ、きらきらとした女子アナは次々と再生産されるのである。女というDNAの強さ、女子アナというDNAの強さ。彼女たちはプライドを捨てないように注意しながら、性懲りもなく刹那の輝きを求め続ける。もちろん、そのベースは仕事だ。輝き続けるための、それは必死の<営み>なのだ。やるべき仕事さえあれば、彼女たちは何度でも再生することができるのだ。たぶん。
この小説の美点は、アナウンサーという仕事の希望的側面がズームアップされることだろう。
著者は多くの人に取材をし、あとがきに、その中から二人を紹介している。ひとりは、府中刑務所内だけで放送されるラジオ番組のディスクジョッキー。もうひとりは、二千五百人をアナウンサーとしてテレビ・ラジオ局に送り込んだ指導者である。これらの取材を最大限に生かしたおかげで、この小説はノンフィクションになり得ている。
登場人物たちのそれぞれのエンディングは、安易な希望を感じさせるものではない。それらは、どちらかといえば、したたかな絶望というべきニュアンスのものだ。幸せな情景が恐怖の連鎖を想像させたり、ネガティブな感情が妙に恍惚的だったり。先のことなんて誰もわからない。結婚したって、子供を産んだって、死んだって、何の解決にもならないのだ。人生なんて、どうせ、すべてが失敗でしょう、ダメもとでしょうという思いが 通底している。柳美里節の真骨頂といえるだろう。
「死ぬ理由はいくつもあるし、生きる意味はなにひとつないのに、わたしは生に引き返した。
生きてるのが嫌なのに、生きてたって、いいことなんてないのに、何度も何度も何度もUターンした」
著者は、さまざまなUターンの可能性を描く。生きているという実感を得られるのは、走り続けるしかない輝きの中ではなく、ゆっくり歩くしかないUターンの時なのかもしれない。女たちに比べ、男たちはUターンが苦手だが、だからこそ、例外的に別の視点を獲得した男が新鮮に感じられる。
「私の宝物は―、最初に逮捕されて、五十四年の人生で手にした全てを失った、あの、どんな過去の一日よりも悲惨な一日です」
こんなことを本気で言う男がいるだろうか? これは、著者から男たちへのギフトだと思う。本気でそんなふうに言えれば、必ずUターンできるのだという救済のメッセージだと思う。他人との比較で負けてしまったり、死んでしまったりしないために、目の前の変化や<今>の空気に敏感であること。男たちが変わることで、女たちも、もっと生きやすくなるかもしれない。
個人的には今、若い世代に、そういう男性が増えていると思う。