それにしてもブータンは、ふしぎの国だ。どうして、民度が高いのだろう。
どうも答えは、チベット仏教にあるらしい。たとえば、役人はワイロとは無縁。仮にバレなくても、悪いことをしたということは自分自身が一番知っている。だから、不正にブレーキがかかる。現に国営航空会社が新しく旅客機を導入する際、商社がブータン側の責任者にスイスに銀行口座をつくらないかと誘いをかけた。ワイロを振り込むぜ。担当者は「その分、部品をくれ」と断った。
チベット仏教の一大特徴は、「一時の幸せ」と「永遠の幸せ」を区別することにある。お金があるとき、好きな人と会っている時間、おいしいものを食べている間、たしかに幸せを感じる。しかし、これは一時の幸せ。山海の珍味、たとえば、紀伊勝浦産の近海マグロのトロも、のど元をすぎれば、ただの粘体物に。時間や状況が変われば、即座になくなってしまうのが、「一時の幸せ」だ。これに対して、永遠の幸せとは、どういうものか。苦しみ、憎しみ、嫉妬がない世界だ。この境地に達すれば、いつ何が起こっても大丈夫。
そのうえ、必要以上は求めない。もし、この世界で生きていくのに十分なものを持っていれば、それだけで幸せなのだとする。あれもこれもと欲張ると、人は消化不良を起こし、国はバランスを崩してしまう。
そうならないための精巧な制御装置が、ブータン人一人一人に備わっているらしい。
つまり、奪わない、うそをつかない、自分より周りの幸せを考える。いま生きていることは、一時的なもので、死んだら来生があり、どんな来世になるかは、いま生きているあいだに積善=どれだけ良い行いを重ねるかにかかっているという倫理観だ。「もっともっと」とエスカレートするのではなく、「これで十分」と足るを知る。これが人と国の安全弁になっている。
それゆえに、読後感はいささか、ほろ苦い。われわれ日本人は、欲望に忠実で、見事にあっさりと民族の独自性をかなぐり捨ててしまったなあ。ファッションも音楽も食べ物も、欧米、とくにアメリカ追随一辺倒。これでよかったのかなあ。
経済のグローバル化も、どうも腑におちません。日本の中高生が小遣いでハンバーガー一個買うと、ロイヤリティとして、チャリンと米国企業=多国籍企業にお金が自動的に落ちるシステム。見えないところで収奪される気がするなあ。ブータンにも、いつかコンビニやファストフードのチェーン店ができるのだろうか。
当初、GNHは疑問視された。面白いアイデアだ。しかし、それを測定する尺度、指数はあるのか、あるとすれば何なのか。多くの人が首をひねった。だが、近代化・経済発展に伴ういろいろな弊害が顕著になってくると、評価はじわじわと高まる。
そうだ、成長一本槍の視座を根本的に組み変える必要があるかもなあ。ひとはみんな幸せになるために生まれてきたのだ。そんな単純な事実に人びとは改めて気づかされる。
政治の最大の要諦は、最大多数の幸福の手助けにある。政治だけではない。もともと、経済、法律、哲学、そして諸科学も「幸せ学」ではなかったか。いかにすれば、より多くの世のひとを幸福にできるか。すべては、ここに集約できるはずだ。
そして思う。中核都市がミニ東京化するだけの、小集落切り捨ての、効率最優先の道州制はやめて、ブータンのような屹立した「地方自治体」をたくさん創れないか。独自の文化、歴史に裏打ちされた個性あるムラやマチ。これらのゆるやかな連合体としての日本国。ここに、希望があるようにも。
見開き2ページが、ひとつの項目という分かりやすい構成。しかし、ついこの間の大政党のマニフェストよりも、しっかりしているぞ。本邦初の首相インタビューなどは2段組みで内容も濃い。この緩急も鮮やか。
この本は一種の経典かもしれない。読んでいて、心が安らかになってくる。ブータンと夏の甲子園があるかぎり、世界はまだまだ大丈夫。そんな気になりまっせ。取材班の中心は小原美千代さん。早大時代にチベット仏教のとりこに。蘭州(中国)、モンゴルに留学。幸せ学をみんなにおすそ分けしたい。すてきな情熱の産物でもある。