『短章集』を読み終えて、考えるということが残った。考えるとは、自分の中に垂直に降りていくことだ。新聞はいくつもの事例をあげて、比較することをすすめるが、それは考えることとはちがう。新聞のやっていることは、1~5までの中から正解を選びなさい、という試験と同じだ。そのままではいつまでも自分の中に降りていくことはできない。ぼくは自分があまり考えるということをしてこなかったな、と思った。
永瀬清子さんは経験したことを元に考える。経験したことは消えることがないからだ。この『短章集』も経験を元に書かれているといってもよい。永瀬さんの経験は詩につながっている。その点、あまり多くを経験する暇のない現代の人は、経験を経なくてもすむ直観に頼って生きているのかもしれない。経験する暇がないのは、便利になりすぎたからなのか、忙しすぎて時間がないからなのか。
一つの経験から一本の竹が生えるとすれば、たくさんの経験をした人からはたくさんの竹が生えてくる。竹は竹林になってその人の全体になる。風がふくとき、上空で竹と竹がぶつかりあって響く音はカラーンカラーンと妙に心に残る。ぼくはもう何年もその音を言葉にできないものかと考えている。
フユノハナワラビという羊歯の話がある。小さな鉢のその植物が、ある朝予告もなく萎えてしまった。美しさも華やかさもないけれど、一途にまじめにその花軸を立たせていたフユノハナワラビだった。突然萎えてしまったハナワラビは、永瀬さんがずっと気になっていた田舎の白い蔵のことを思い出させる。その蔵は太い欅の柱に支えられて今でも立派にたっているけど、屋根は修理することもできないくらい朽ち果てている。いつ崩れ落ちてもおかしくはないその蔵のことを教えてくれた、羊歯の可憐な行為に永瀬さんはその夜一人で炬燵で涙する。そして美しいものだからこそ存在すべきたという自分の考えは間違いであることを知る。
『短章集』はもともと四冊に分かれていた。しっとりとした美しい装丁は谷川俊太郎さんだった。詩の森文庫になって四冊は二冊にまとめられた。装丁もシンプルになった。以前より少し小さくなって、片手でつかめるほどの大きさの本である。だけどその重量は水の入った皮袋のように重い。それは考えがたどりついた一言一言が、たっぷりと水を含んでいるからだ。永瀬さんの言葉には枯れるということがない。目や記憶がうすれ肉体が衰えて、本が読めなくなっても、人は「思い」「空想する」ことができる。それができる限り人は枯れることがない、と永瀬さんはこの『短章集』で証明してみせてくれる。
もしも自分の中に詩人がいるのなら、自分を詩人と呼ぶのを照れることはないはずだ、と永瀬さんは書く。ぼくが自分を詩人と呼ぶのがはずかしかったのは、自分の中に詩人がいなかったからなのだろうか。「ボロをみせず、とりつくろい、心の底を絶対にかくしたがっている人には詩は書けない」と永瀬さんは言う。「打ちあけて本性をさらけ出すことの上に詩は成り立っている」と。自分の中に詩人がいるかどうかは誰にもわからないから、詩について考え続ける。そしてその詩について考え続ける人を詩人と呼ぶのではないだろうか。永瀬清子さんは生涯考える人だった。
永瀬清子 詩人。明治39年2月17日生まれ。「上田敏詩集」を読んで詩の世界に開眼。愛知県立第一高女高等部在学中、佐藤惣之助について「詩之家」同人に。昭和5年『グレンデルの母親』を発表。昭和15年『諸国の天女』(序文は高村光太郎)を発表、女流文学者として認められる。戦後は農業に従事しながら作品を次々に発表。昭和27年「黄薔薇」創刊。昭和62年『あけがたにくる人よ』で地球賞を受賞、このとき81歳、翌年は同詩集でミセス現代詩女流賞を受賞。平成7年、89歳で永眠。