筑摩書房は、長野県出身の古田晁によって創業された出版社である。
およそ70年の歴史を持つ日本有数の出版社であるが、その社史を見ると、ずっと順風満帆というわけではなかった。最大の危機は、本書でも詳しく描かれているが、1978年のときだった。筑摩書房は会社更生法を申請し事実上の倒産、全く突然のことで、読書界出版界を揺るがすような出来事だった。著者の柏原成光は社内にいても、この通告は青天の霹靂だったと書いている。
読書人にとっては、単にひとつの会社が倒産した、というのではなかった。そのとき22歳だった私でも大きなショックを受けたことを憶えている。私がまず困るのは個人全集のことだった。梶井基次郎全集も宮沢賢治全集も中島敦全集も中野重治全集も、筑摩が無くなったらいったいどうなってしまうのだろうと、ただただ読書が好きなだけであった私は、心配したのだった。筑摩といえば個人全集。後には、ちくま文庫版でも個人全集(坂口安吾、柳田国男など)を出すといった画期的な出版社だった。それらが読めなくなる、あるいは自分の本棚に並べることができなくなるかも知れない、という心配だったのだ。
その当時のマスコミの反応などが本書に書かれてあったが、異例のことだったようだ。新聞各紙は、「良書の筑摩をつぶすな」、「筑摩文化の灯火を消すな」、などと大々的に掲載したという。返品するのを控えて、筑摩支援セールをしてくれた書店の応援もあったというが、この話などは、いかに筑摩が読書人に愛されていたかがよくわかるエピソードだと思う。筑摩を救え、という声は読者や作家達からも発せられたという。そういうこともあって異例の早さで再建されることになった。
著者、柏原成光は、1964年に筑摩書房に入社し、雑誌『文芸展望』の編集長などを経験したという。古田晁が社長を退き会長に就任したのが1965年だったので、柏原が古田社長のもとで働いた期間は短い。だけど古田晁は、会長になってもよく出社していたというから、柏原は古田晁の存在感、あるいは人柄などは身近にいて、よく感じ取れただろうと思う。古田晁という魅力ある人物の面影を語る人は少なくなっているので、その意味でもこの『本とわたしと筑摩書房』は貴重な証言だと言える。
古田晁は、私欲をはなれて作家を支え続けたような所があって、経営者としては問題があったのだろう。だけどそんな古田晁がみんな大好きだったのだ。上林暁の面倒もよく見てくれた、と私は今でもそのことを思うとジーンと胸が熱くなる。売れそうな本だけを出す出版社、売れそうな本だけを並べる書店、そんなものばかりになってしまえば、読書文化の未来はないだろう。
柏原氏は、古田晁の精神を残しつつも時代とともに変わっていく筑摩書房を個人の視点より描いているが、彼が関わった人物(上司や作家)、書物、なども興味深い。柏原成光が最初に配属されたのは、編集第二部で、「現代日本思想体系」をつくっているところだったという。柏原氏が描くのは、そのときの上司、松下裕の仕事ぶりだ。松下裕はチェーホフの翻訳家としても知られ、また中野重治全集の担当編集者でもあって、『評伝中野重治』という名著の著者でもある。松下氏は仕事を始めるにあたって、きわめてきちっとした計画を立て、記録とメモを作る人だった、という。そうだろうなあ、と中野重治全集を愛読するものとして、当たり前のように納得した。
筑摩書房の最初の出版は、『中野重治随筆抄』で、1940年、6月18日のことである。それに続き、中村光夫の『フロオベルとモウパッサン』、宇野浩二の『文藝三昧』が同時に出版されたという。出版社が最初にどんな本を出したのかは興味あるところで、各社、調べて書き抜いていけば面白いかも知れない。やはり出版社の路線やカラーが最初の出版物に現れていると思えるからである。この筑摩の三冊は、古田晁の盟友、臼井吉見の好みが伺えるが、筑摩らしい3冊だと思う。
古田晁と臼井吉見は県立松本中学校の同級生だった。この臼井吉見の企画力が初期のころの筑摩書房を支えていたのだという。臼井が編集長として戦後すぐに出された雑誌『展望』は今でも評価が高い。そのころのことを回想したのが臼井吉見の『蛙のうた』である。
柏原成光にとっても、筑摩書房は、単なる給料を得るための労働の場ではなかったという。ということは、古田晁の気持ちは今でも引き継がれ筑摩書房に残っているのだと思う。私は数々の名著を私たちに届けてくれた筑摩書房とそれを支えてくれた柏原成光に感謝の気持ちをもって、この『本とわたしと筑摩書房』を読み終えた。
古田晁に興味ある人は、野原一夫の『含羞の人』(文藝春秋社)を、筑摩書房のことをもっと知りたい人は、和田芳恵の『筑摩書房の三十年』(筑摩書房)を、柏原成光の他の著書を読みたい人には、『黒衣の面目』(風濤社)をお勧めしたい。