まだ「やおい」「BL(ボーイズラブ)」といった言葉が存在していなかった1970年代、美少年たちの性愛物語の創造に関わった仕掛け人の一人(増山法恵)は、自分たちの理想とした美と官能の世界を、「クナーベン・リーベ」と言い表します。「クナーベン・リーベ」すなわち「少年愛」、この何やら格調高そうな響きのドイツ語が、「ボーイズラブ」というカジュアルな和製英語に移り変わる「あいだ」に、はたして何が起こったのか。そのめくるめく激動の歴史を多彩な視点から物語る、めっぽう面白い<女子ども>文化論です。
60年代以降の男性知識人・文化人らによる「男性の身体の露出を通じて政治を語る」実践が、三島由紀夫の自死によって衰退を余儀なくされた後、そこで培われた美学と教養の体系に慣れ親しんだ女性たちによって、「男性身体の美と官能」を愛でる男同士の性愛物語が形作られてゆき、竹宮恵子の少女マンガ『風と木の詩』の連載開始(1976年)、そして雑誌『JUNE』の創刊(1978年)を重要なきっかけとして、80年代以降の本格的な商業的ジャンルとしての<やおい・BL>の成立と普及に至る。本書において示される歴史的展望を、以上のように大雑把にまとめてみることができるでしょう。複雑な社会・文化的状況をクリアに見通す幅広い視座に加えて、マンガ、文学、映画といった個々のテクストのメディア的特性を的確に押さえた精緻な読解、そして当事者たちに対するインタヴューをはじめとする地道な資料調査に基づいて、「女性がつくり楽しむ男性同士の性愛物語」の成り立ちを、具体的かつ体系的に把握してみせた点に、まず、本書の大きな意義があります。
萩尾望都、竹宮恵子、山岸涼子ら「花の24年組」による少女マンガの革命的な発展が、本書でも重点的に取り上げられるヘルマン・ヘッセの文学やヴィスコンティの映画など、ヨーロッパ発の「高級文化」や、稲垣足穂、三島由紀夫らの文学における「耽美」の美学の強い影響を受けていること。こうした事実は早くから気付かれ、さまざまな形で指摘されてもいます。しかし、そうした指摘が陥りがちだった断片的で漠然とした印象論も、あるいは「少女マンガにおける文学の影響」といった際にしばしば含意される、「高級文化」(成人男性の文化)から「低級文化」(<女子ども>の文化)への一方通行的な恩恵の授受という図式も、本書では周到に避けられています。
本書がヴィヴィッドに捉えてみせるのは、既存の「教養」を貪欲に取り入れつつ、それを大胆にカスタマイズすることで、より自分たちの理想に近い美と官能の世界を立ち上げてゆこうと試行錯誤する、若い作り手たちの熱気に満ちた営みです。ここには竹宮恵子をはじめとする個々の作家についてのすぐれた作家論も含まれていますが、さらにユニークかつ興味深いのが、「花の24年組」はじめ70年代少女マンガの野心的な描き手たちが集った「大泉サロン」、そして「70年代サブカルチャーの総花的雑誌」としての『JUNE』といった、主に女性からなる作り手と受け手のために開かれた、教育と創造の「場」についての記述です。
80年代以降、女性向けの商業ジャンルとしての「やおい・BL」が本格的に成立するにあたり、雑誌『JUNE』が一大拠点となったことは、今更言うまでもありません。しかし、初期『JUNE』誌上で、70 年代以前からの「男性身体の美と官能」をめぐる美学と教養の体系を継承する「教育」が実践されていたことを明らかにし、その「エンターテイメント教養」の場としての歴史的重要性を本格的に論じた点に、本書のユニークな画期性があります。
80年代以降の『JUNE』の主要連載のひとつ「小説道場」の主として、読者による投稿小説の添削指導を熱心に続け、多彩な顔ぶれの「門弟」達を育てたほか、初期『JUNE』誌上では、「フランス人小説家・ジュスティーヌ・セリエ」を名乗って耽美官能小説を執筆し、「仏文学専攻女子大生・あかぎはるな」を名乗って、『JUNE』読者にとっての必読書をまとめた「世界JUN(E)文学全集」を監修するなど、まさに八面六臂の「教育」活動を繰り広げた中島梓についての記述。あるいは、かつて「小説道場」の「門弟」の一人であった石原郁子が、耽美小説と映画批評の執筆を通じて、男性主体と異性愛主義を柱とする公的な制度の<外>で、性愛と官能に対する別様の視点と語り方の可能性を模索してゆく過程についての記述。いずれも早すぎる死をとげたこのふたりの書き手について書かれた文章の中でも、最も魅力的かつ感動的なものの一つといえるでしょう。
後半には竹宮恵子、『JUNE』の企画者である編集者の佐川俊彦、「大泉サロン」の主催者増山法恵の三氏に対するインタヴューが収録されていて、いずれも貴重な証言が満載の充実した内容です。わけても、竹宮恵子はじめ、「花の24年組」のプロデューサー/マネージャーというべき役割を務めた増山法恵氏に対するインタヴューが圧巻です。幼い頃から文学、映画、音楽に耽溺して育った若い女性が、少女マンガに「芸術」に匹敵する品質と地位を獲得させるという、その時点においては無謀ともいえる志を抱き、偶然に出会った才能ある友人たちに、自選の文学、映画作品を薦めて「教育」を施し、やがて同好の志を集めて「大泉サロン」を立ち上げ、万事において保守的な雑誌編集部と闘いをくり広げてゆく。その「友人」とは、竹宮恵子と萩尾望都であった――。という「24年組革命」の仕掛人の物語るエピソードの数々は、『プロジェクトX』の大半のエピソードが裸足で逃げ出す面白さです。
本書は、「女性がつくり楽しむ男性同士の性愛物語」の成立にかかわった人々の集いの場を、たんにノスタルジックなユートピアとして捉えているわけではありません。本書の終わりには、「作品はすべての人に開かれ、読まれ、解釈される。そして、賛辞も、批判も含めて、思いもよらなかったものが生まれいずる。この終わりなき繰り返しが文化とよばれる営みだ、と私は考える」(277)という文章が置かれています。「自分にも何かできるはず」という熱いパトスに突き動かされた人々が集まり、称賛さるべき、あるいは批判さるべき、ときには困惑と苦笑をさそう素っ頓狂なものも含みこんだ雑多な実践が、たえず生起してやまなかった教育と創造の場の記憶を継承する本書は、それ自体が「密やかな教育」の場として、現在もしくは未来の読者に向けて開かれています。