チャンドラーは断るまでもなく、ハードボイルドミステリの作家であるとされている。あらためてハードボイルド(hardboiled)という字面を追うとなんだか不思議だ。読んで字のごとく、「固茹で卵」。タフでクールな私立探偵を主人公にした小説のどこが固茹で卵なのか。ハードボイルドは、アーネスト・ヘミングウェイの文体に対して名づけられたことはよく知られている。固茹で卵は固い白身が周囲をしっかりと覆い、中の黄身の状態が見えない。ヘミングウェイは登場人物の行動を活写することで、心理を描くことなく、小説を造型して行こうとした。ヘミングウェイ自身は、それを「氷山の一角」という言葉で説明している。氷山の目に見える部分はわずか10%に過ぎず、残りの90%は水面下に沈んでいる。その氷山の一角だけで、見えるはずのない水面下の心理までを読者に読み取らせようとしたのだ。
ヘミングウェイの文体は新しかった。1920年代当時の読者にはきわめて新鮮に映ったはずだ。小説という形式は本質的に心理描写に向いていることもあったし、19世紀的な小説のほとんどが登場人物の心理的葛藤を軸に物語が進行することに、だれも疑いを持つ者はいなかった。いわば黴臭い心理描写をきれいさっぱりと洗浄し、乾燥させ、プレスをかけて登場したのがヘミングウェイだったわけだ。
ミステリ作家が飛びついたのは当然だった。謎を解く楽しみを提供するミステリにとって、この文体はとても都合がよかったのだ。登場人物の行動だけを物語の推進力とできるこの文体は、その簡潔さゆえに説明されることのない何かが謎として積み残されてゆき、それが読者を宙づりにしてゆく効果をもたらした。それに心理描写ではつい筆を滑らせてしまいがちな、謎解きの興を削ぐような余計な説明をしてしまうような愚を犯すこともない。
ダシール・ハメットがこの文体に注目し、自身の作品に取り込んで行ったのはまさに慧眼だった。しかし、チャンドラーはハメットのように文学的な効果を狙って、こうした文体に接近したのではない。すくなくとも私にはそう思える。彼には隠さなければならない何かがあったのだ。ヘミングウェイがそうだったように。
白いドレスを着て花々をあしらった帽子をちょこんと頭に載せ、ブーケを手にはにかむ幼いヘミングウェイの写真を見たことがある。母親グレイスは幼いアーネストをまるで女の子のように扱った。まるでマッチョの代表であるようにいわれる作家にはそんな過去があった。だからこそ、自分の中にある女性的な部分に嫌悪し、母親を憎んだのだろう。母親の引力圏を逃れるためにヨーロッパに渡ったけれど、母親の影は彼を離そうとはしない。最初の恋人で看護婦のアグネスも7つ年上だったし、次の愛人ハドリーも8つ年上だった。
チャンドラーもその意味ではヘミングウェイに劣らないマザコンだったといえるだろう。チャンドラーは8歳で両親が離婚したあと、母親に伴われて母の故郷のイギリスに渡っている。イギリスで大学を終えた後、大陸に渡り、フランスとドイツで言語学の研究を行ない、イギリスに戻ると英海軍に勤めながら、文芸誌に詩や書評を投稿する日々が続いた。そして23歳で米国に戻り、ロサンゼルスで母子二人きりの生活が35歳になるまで続いた。そして、母が死んだ2週間後に18歳年上のシシーを妻に迎える。そのとき、妻シシーは53歳だった。ほとんど母親といっていい年齢である。
ヘミングウェイ/チャンドラーには母親が漬物石のように重くのしかかっている。それだからこそ彼らには、ハードボイルドの文体が必要だった。内なるマザーコンプレックスを誰にも知られたくはなかったのだ。なにかことが起きれば、母親の後ろに回り込んでしまうようなヤワな自分を隠しておきたかったのだ。チャンドラーの造型した人物、フィリップ・マーロウは、彼が理想とした男性像そのものだったに違いない。
斎藤美奈子がハードボイルドについて「男性用のハーレクインロマンス」だと喝破していたけれど、いい得て妙である。ハーレクインロマンスがねじれたファザコン小説であるように、ハードボイルドは反転したマザコン小説であることを、斎藤美奈子はきちんと見て取っていたのである。
であればあるほど、チャンドラーは文体の後ろに自らを隠す必要があったのだろう。クールでタフなフィリップ・マーロウの造型にそれは大きく関わっていたはずである。
そこでここでは二つの翻訳文体を比較することで、ハードボイルドについてもう一度、考えてみたい。私が注目したのは文末である。
清水訳はこんな感じだ。
「二重ドアがあった。」「入って行った。」「よくなかった。」
村上訳はこうだ。
「仕切りがあった。」「わからない。」「入った。」「部屋だ。」「陽気でもない。」
両者とも2章の冒頭部分であるが、リズムが微妙に違うことがわかるだろう。コンクリートの壁に鋲を打ち込むように「った」「った」「った」と清水は文末を打ちつけてゆくが、村上訳は違う。文末に変化を持たせ、単調さを回避しようとする工夫がある。日本語の文末は「ですます調」か「である調」であるといわれるように、とかく単調になりがちだ。文筆家はそれをいかにしてかわすかが腕の見せ所なのだが、その意味で村上の文末の処理は文学的にみて質が高い。しかし、一方の清水の壁に鋲を打ち込むような文末の運動には、熱いグルーヴと感傷が息づいている。
村上訳は、チャンドラーのテクストに忠実である。清水訳がほかのニュアンスに分散・回収しようとした部分でさえ、愚直なくらいきちんと訳出している。チャンドラーは本質的に詩人だった。それゆえ、いささか突飛な比喩や詩的な形容が散りばめられている。ジャンル小説として考えれば、清水のように処理しなければならない面もあっただろう。しかし、村上の訳業によって、チャンドラーの文学者としての優れた一面を、若い読者に伝えられる機会を得たことはとても意義深い。比喩の多くをチャンドラーから学んだと思われる村上にとって、その比喩を丁寧に訳出することで彼に恩返ししたかったのかもしれない。
ヘミングウェイがそうだったように、チャンドラーはフィリップ・マーロウの視線を借りて、彼自身の永遠のファムファタール、母の面影を追っていたのではないか。ハードボイルドに感傷が滲むのは、手の届かぬものを常に追い求めているからかもしれない。