まず本書の成り立ちを見てみよう。
1921年に、パリのベルネム=ジューヌ社から初版が出版された。
それが日本語に翻訳されたのは、1980年のことで、高田博厚監修、與謝野文子の訳、出版社は美術書を数多く手がける求龍堂だった。そして今年2009年、岩波文庫に姿を変えて再び私たちの前に現れたのが本書というわけだ。求龍堂版は長らく品切れだったので、待ちに待った文庫化だと言えるだろう。
カバーデザインは中野達彦氏が担当している。上部にタイトルの「セザンヌ」の文字を置き、それを緑色で包みこんでいる。下部にはセザンヌの名作「松の木のあるサント・ヴィクトワール山」を配しているが、この山、どこから見ても特別な山だとは思えないのに、なぜか画面から受ける印象は強い。何度見ても絵画のチカラをはっきりと感じさせてくれる優れた作品だと思う。見ていると、全体として迫ってくるものがあり、それは絵画でしか味わうことのできない種類の感動だろう。部分でなく全体として感じられるのは、セザンヌも述べていたと思うが、彼のカンヴァスの上では、すべてが同時に進行しているからであろうか。セザンヌはどのように一枚の絵を描き上げてゆくのだろうか。
印刷の技術の問題もある。私はときどき無性にセザンヌの絵が見たくなる。それはセザンヌの絵に包まれるような経験を繰り返し求めているのだと思うが、そんなとき決まって開く画集は、なぜか、ひと昔もふた昔も前の、昭和15年にアトリエ社から出た『原色版ポール・セザンヌ』なのだ。気に入っているからなのだが、やはり原色版といっても七十年ほど前の技術で、物足らないところもある。カンヴァスに光をつくり出す道具は絵の具なのだから、発色というのは重要な要素になる。でもそうとわかっていても、私にセザンヌが必要になれば、印刷の美しい図録などではなく、またアトリエ社の画集を開くだろう。私は、色以上にセザンヌの線が好きなのだろうと勝手に思いこんでいる。絵の見方としては邪道だと思いながら、色が褪せているぶん線が浮き立って見えるので、それを心地よいと思ってしまう。
著者のジョワシャン・ガスケは、セザンヌと同じプロヴァンス出身の詩人で、セザンヌの晩年、彼の近くにいて、その言動を観察することができた、幸運な人物である。父親のアンリ・ガスケはセザンヌの小学校時代の友人だったという。(ちなみに、セザンヌはこのガスケ親子の肖像画を残している)本書でガスケは、第一部で、セザンヌの生涯を、青春、パリ、プロヴァンス、老後の四つに分けて語り、第二部では、モチーフのこと、ルーブルのこと、アトリエのこと、を対話形式でセザンヌから話を引き出している。
「自然は円筒、球体、円錐をつかって処理すること」という有名な言葉や、セザンヌが、モチーフをつかむとはどういうことなのかを説明するのに、十本の指を開き、ゆっくり両手を近づけてしっかり組み合わせたというエピソードも、第二部で語られている。その他私に興味深かったのは、セザンヌが他の画家をどのように見ていたか、ということだ。例えば、モネは一つの眼だ、絵描き始まって以来の非凡な眼だ、などと述べているのだが、これはモネは眼でしかない、とも読み取れそうで、どのひとことも単純なものではないのだろう。また図版を見るのも愉しい。
セザンヌ自身のものだけでなく話題に上った名画の数々が挟み込まれているのもこの本の大きな魅力で、私は、そこからまた別の絵も見たくなり、ドガやモネの画集の方へと気持ちが動いた。
與謝野文子氏の翻訳は抒情に走るのを抑えた達意の文章で、全体としてのトーンも好ましく、私はジョワシャン・ガスケがとらえたセザンヌの姿に感動するだけでなく、與謝野さんの文章をも愉しむことができた。
日本人が書いたセザンヌに関するものでは、小林秀雄の『近代絵画』が特に優れていたと記憶しているが、今度、ちくま文庫に入った、吉田秀和の『セザンヌ物語』も周到な論考であった、ということを最後に付け加えておきたい。