ぼくは以前、毎日新聞で記者の藤原章生さんに取材されたことがある。そのとき藤原さんは、今度レイナルド・アレナスのことを本にしようと思っている、とぼくに言っていた。ぼくもレイナルド・アレナスには興味があったから、本になるのをずっと楽しみにしていた。
藤原さんの文章には、ノンフィクションらしからぬスピード感がある。文字の上を走るスポーツカーのようだ。説明がないから、物語のようでもある。そしてその語り口に納得させられる。物語られるのはフィクションではなく、事実なのだけど、題材がおもしろいので、まるでフィクションのように感じてしまうのだろう。
第一話の登場人物、ジャマールは預言者だ。この預言者の父もまた預言者だったという。どちらもイラクの元独裁者、サダム・フセインに仕えていた。サダムは何人もの預言者を自分の宮殿に閉じ込めていたという。その中でもこのジャマールには絶大な信頼を寄せていた。
イラク戦争が終わり、アメリカ軍はサダムの行方を血眼になって追っていたとき、ジャマールにはすでにサダムの居所がわかっていた。漠然とそういう映像が浮かぶのだそうだ。ドバイに逃れ、そこで結婚をする夢を持つジャマールは、会見の最後に著者との再会を予言する。それ以来この著者は人ごみの中にジャマールの面影を追い求める。この本では著者も架空の人物のように描かれている。
第二話の登場人物はケープタウンに住むタクシー運転手のミッシェルと娼婦のジャッキー。二人はクラックという麻薬の中毒である。ジャッキーがホテルで客をとっている間、ミッシェルは外でジャッキーが出てくるのを待っている。別に頼まれたわけではない。ミッシェルはジャッキーに惹かれているのだ。お金を手にした二人はクラックを吸える場所に直行する。
麻薬の効果が薄れていくとき、ミッシェルはぼんやりとこんなことを思う。「人の命を小さな砂粒と比べるのは意味がない。命は命。あるとき、終わりを迎える。でも砂粒には命がない。それは長い年月を経て姿を変えても、完全に消えることはない。だとすれば、自分の人生などたった一つの砂粒よりも、もしかしたらもっとつまらないものかもしれない。」
第三話は、1980年にキューバからアメリカに亡命し、1990年にニューヨークで自殺したゲイの作家、レイナルド・アレナスと、その親友のデルフィン・プラッツという詩人の話。レイナルド・アレナスの自伝『夜になるまえに』(国書刊行会)は映画化され、ぼくも映画館で見たことがある。ゲイだからというだけの理由で、キューバから追放された詩人が、エイズにかかり、ニューヨークで友人の手を借りて自殺するまでのモノクロームな物語だった。実際には色があったかもしれないが、ストーリーは独白調でモノクロームだった。
一方、キューバに残ることを選んだデルフィンは詩を書かなくなる。同性愛者は革命後のキューバでは本を出版できなかったからだ。
「遥か遠くで死ぬことがぼくの夢だった」、と「夜になるまえに」で書いたレイナルドは、その通りニューヨークで死んだ。革命後のキューバを嫌い、革命への怒りを文学にまで高めた男。だが、心はまだキューバにあった、とデルフィンは思う。なぜなら、ニューヨークにいてニューヨークのことは一行も書かなかったから。
時代は変わった。レイナルド・アレナスはそのことを知らないまま、反逆児として死んだ。だが生き残ったデルフィンは、「イメージと言葉は違う。イメージは空から降ってくる。いや、神様のようなものが授けてくれる。でも、言葉は違う。自分の中からわき上がってくる。(中略)やはりイメージと言葉は違う。その境目に何かがある。それがきっと詩。」とまた詩を書きはじめることを考えている。